昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

高校時代の苦い記憶……中日の“名もなき左腕”笠原祥太郎は、英雄になれるか

文春野球コラム ペナントレース2018

2018/07/10

「全部覚えています。僕が先輩の夏を終わらせました」

 今年も甲子園を目指す地方予選が始まった。しかし、多くの球児は儚く散っていく。新潟県立新津高校の2年生エースだった笠原祥太郎もその1人だった。

「初戦の帝京長岡戦。2対1でリードして9回裏2アウトランナーなし。最後のバッターを空振り三振にとったと思ったら、振り逃げ。次は高いバウンドのピッチャーゴロ。でも、僕のグラブの先に当たって内野安打。そして、ショートゴロエラーで満塁。押し出しで同点。最後はセンター前に打たれて逆転サヨナラ負けです」

 ベンチで号泣する先輩。それを見て放心状態の左腕。気付けば、涙が頬を濡らしていた。

 つまずけば、起き上がる。それが笠原だ。

 1年後、再び夢舞台をかけてマウンドに上がった。「3、4番に長打力もありましたし、ひそかに自信はありました」と振り返る。

 1回戦を勝利し、名門・新潟明訓と激突。4対3と1点をリードして9回裏に入った。

「先頭にライト前。その時、前年のことが頭をよぎりました。次がバント。僕が捕りに行ったんですが、雨でぬかるんでいて右足を滑らせました。これで1、2塁。次のバントが内野安打。満塁から押し出し。最後はレフトオーバーを打たれて終了です」

 仲間とベンチ前に整列。響くのは相手の校歌。こらえ切れなかった。不思議なほど深い傷を負った記憶は鮮明だ。

2年目で開幕ローテーション入りを果たした笠原祥太郎

大学球界のエースと攻守の要と球拾いが同じチームへ

 笠原は決してエリートではない。彼の野球人生は自信の「喪失」と「回復」の繰り返し。2年春に背番号1を付けた時に芽生えた自信を夏に失い、ひそかに甲子園が頭をよぎった3年夏の自信も一瞬にして消え去った。

「プロ野球は全く考えていませんでした。社会人野球に進めればいいかなという程度」

 しかし、新潟医療福祉大学進学後、笠原の成長曲線は急カーブを描く。ハードな練習を積み重ね、球速はMAX147キロまでアップ。3年秋には1部リーグに昇格した。

「その頃からスーツ姿の男性が監督と名刺交換するところを見かけるようになりました」

 プロのスカウトが来ている。遠い存在だった世界の輪郭が少し見えてきた。4年春は6勝をマーク。自信がみなぎってきた。

 6月、吉報が届く。大学日本代表選考会の合宿に招集されたのだ。神奈川県内で行われた2泊3日のオーディション。全国から50人の選手が集結した。

 しかし、落選。

「だろうなと。みんな球は速いし、コントロールもいい。また、六大学や東都の連中は仲良くしていて、僕はその輪の中に入れなかった。完全な名前負けです」

 7月、第40回日米大学野球選手権が開幕。2試合がハードオフエコスタジアム新潟で開催された。

「1ヶ月前に一緒だった選手がジャパンのユニホームを着ていて、僕は大学のジャージ。差を感じました」

 笠原は1塁側の内野スタンドにいた。球拾いだった。

「ファウルボール、結構飛んできましたよ。お客さんに怪我がないか確認して、ボールを回収する役目です」

 ネット裏には約20人のスカウトが押し寄せていた。当然、球拾いの学生など見向きもしない。

「その試合、先発の柳(裕也)がすごくて。カーブで三振の山を築いていました。決勝タイムリーは京田(陽太)でした」

 大学球界のエースと攻守の要。そして、球拾い。この3人がやがて名古屋で共に戦う。やはり運命の糸は見えない方が面白い。