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皇族の結婚をめぐるマスメディアの報道はどう変わったか

2018/07/13
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結婚相手の人格より「家柄の良さ」が強調された

 三女の孝宮和子内親王は結局、大谷光紹とは破談になり、五摂家出身の鷹司平通(たかつかさ・としみち)との婚約が1950年に内定し、結婚に至る。四女の順宮厚子(よりのみや・あつこ)内親王も翌1951年に旧岡山藩主家・元侯爵家の池田隆政との婚約が決まり、結婚する。この二つの結婚でも、現在と同じように結婚相手の人となりは紹介されている。しかし、その扱いは意外なほどに小さい(略歴が記されるのみの記事もある)。そしてそれ以上に強調されているのは、その家柄である。孝宮の場合、元公爵で、「五摂家の名門」としての鷹司家に関して記事が掲載され、その家柄の良さが強調されている(『朝日新聞』1950年1月27日)。五摂家とは、古代から続く藤原氏の流れを持つ家である。近衛・九条・鷹司・一条・二条の五家で、天皇を代理する摂政や関白に任じられるような名門であった。

 順宮の場合は、もう少し池田隆政に関する紹介も増えているが、「元侯爵長男」であることが見出しで強調されるなど、やはり家柄を伝えようとする意図が見える(『朝日新聞』1951年7月11日)。つまり、結婚相手の人格よりも、その家柄がいかなるものなのか、ということに力点が置かれていた。これは、戦後の象徴天皇制となって、先に述べたように、皇女の結婚相手がこれまでとは異なる家柄から選ばれる可能性が高くなったため、どのような家なのかに注目していたからだと思われる。また、戦後数年では「家と家との結婚」という観念がまだ残存していたからこそ、家柄に注目した報道がなされたのだろう。

1959年4月10日、50万人が祝福したご成婚パレード ©文藝春秋

 そして、皇族の結婚報道の転機は、明仁皇太子と正田美智子さんとの婚約発表から結婚に至る「ミッチー・ブーム」だと思われる。「平民」出身であることが強調され、その家柄にも注目されたことは確かである。しかし、折からの週刊誌創刊ブームに乗って展開された皇太子婚約報道は、新しく皇太子妃となる美智子さんの人となりを描き出していく。「恋愛」と言われた二人の結婚は、日本社会にも大きな影響をもたらし、見合いよりも恋愛に基づく結婚が増加していく(河西秀哉『天皇制と民主主義の昭和史』人文書院、2018年など)。こうして、「家と家との結婚」という観念は次第に薄らいでいったのである。

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「私が選んだ人を見ていただきます」

 その後、昭和天皇の五女・清宮貴子(すがのみや・たかこ)内親王と島津久永さんとの婚約が発表された時、その見出しでは「皇太子の学友」と記され、もちろん家柄に関する報道もあるものの、日本輸出入銀行に勤務していること、「趣味は読書、音楽、囲碁といった地味なタイプ。皇太子さまや清宮さまほどにはスポーツ好きではないようだ」と記されるなど、人柄に関する報道が全面に出る構成となった記事が掲載された(『朝日新聞』1959年3月19日夕刊)。ここで、現在の皇族の結婚をめぐる報道の原型が登場したのではないだろうか。婚約発表の約3週間前に、清宮貴子内親王が二十歳の成年皇族になるに当たっての記者会見で「私が選んだ人を見ていただきます」と語ったことも、当時は驚きをもって受け止められた。実際そうであるかは別として、女性皇族個人が結婚相手を選ぶ、ということがより印象づけられたとも言えるだろう。

1960年3月10日に結婚式を挙げ、記者会見する島津久永さん、貴子さん ©ジャパンタイムズ/共同通信イメージズ

 秋篠宮紀子妃、雅子皇太子妃の結婚、および紀宮清子内親王(現・黒田清子さん)と黒田慶樹さんとの結婚においてもそれぞれの人柄がエピソードとともに伝えられる報道スタイルが確立してきた。このように、皇族の結婚をめぐる報道の中にも、戦後社会のあゆみが見えてくるのである。