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「うつ病はこうしてやってきた」羽生世代の棋士が綴る"うつぬけ体験記"

2018/07/15

genre : 読書, ヘルス, 医療

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1日しか休みがなかった2月と3月

 だが、まったく予兆がないというわけではなかった。この半年以上、日本将棋連盟はいわゆる「不正ソフト使用疑惑事件」のことで揺れに揺れていた。真相を究明するために第三者委員会ができ、理事の半数以上が会員(棋士)の投票によって解任されるという異常事態が起きていた。将棋連盟はほとんど組織の体をなしておらず、行政の指導やらスポンサーの契約金の減額などという物騒なことばが飛び交っていた。詳しくは書かないが、私は佐藤康光会長と連日会って深刻な話し合いをしていた。あの温厚を絵に描いたような佐藤君が四ツ谷の居酒屋で「やってられねえ」と語気を荒らげ、ごろりと寝転がってしまったことすらある。

将棋会館(千駄ヶ谷) ©文藝春秋

 そんなわけで、2月と3月は1日しか休みがなかった。その貴重な休みには家でひたすら「ドラゴンボール」を読み返していたのを覚えている。

 4月に入っても余波はつづき、理事会の新体制ができても、私が裏で画策したのではないかと先輩の棋士に呼び出されて詰問されたりしていた。私は古いタイプの人間だから、先輩に何かをいわれると弱い。

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事務所兼マネージャー兼タレント状態

 そのころ、私が長年かかわった漫画作品が映画になって封切りされた。私はこの映画で、地に落ちた将棋界のマイナスイメージを払拭させてやろう、一発逆転をしてやろうと張り切って、すべての仕事を受けた。原稿、イベント、取材、ほとんど休みがなかった。将棋連盟の広報にはなしがくるという正式な手順を踏んでくれればいいのだが、そのうちに自宅やケイタイにばんばん連絡が入るようになり、多くはこんな感じだった。

「今度、ウチの将棋大会で映画のイベントをするのだが、来てもらえないだろうか」

 お世話になっている方からこういう電話をもらっても、映画というものは権利関係が実に細かく設定されていて、してはならないことが山のようにある。企画の内容を聞くと、そのイベントをつぶさなければならない。連盟の広報を通してほしいと頼んでも、水くさい、なんとかお願いできないかといわれる。出版社や映画の配給会社へいってくれというと、何でそんなところに連絡しなければならんのだ、と怒られる。

 当時、将棋連盟の広報担当は2人しかおらず、私のスケジュールをすべて管理するのは到底無理な話だった。日に数件の取材やイベント(対局の前日にもほとんど仕事をしていた)だけでなく、現場での細かい打ち合わせも、大半は自分で管理しなければならなかった。すなわち私は、事務所兼マネージャー兼タレントをやらなければならなかったのである。

 私は毎日、家で叫んだ。「俺にマネージャーをつけろ!」。実際、3カ月限定で事務所に入ろうと思って打診したこともあったが、そんな話は聞いたことがないと断られた。

 6月の終わりというのは、やっとすべてが一段落して、すこし私も落ち着き、世間では藤井聡太君が注目されだしたころだった。藤井君のフィーバーのおかげで私があれほど望んだ一発逆転を棋界が果たすと知るのは、この先にも書くとおり、しばらく先のことだった。
 

うつ病九段 プロ棋士が将棋を失くした一年間

先崎 学(著)

文藝春秋
2018年7月13日 発売

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