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藤井フィーバーのウラで「俺はなんて情けないんだ」。うつ病になった棋士の苦悩

2018/07/16
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 羽生世代と言われる棋士のなかでも、最も早い11歳で奨励会に入会した先崎学九段。17歳でプロデビューし、1990年度のNHK杯戦では同い年の羽生善治を準決勝で破り、棋戦初優勝。2014年には九段に昇段している。

 そんな将棋界の重鎮、先崎九段が昨年9月に突然将棋界から姿を消した。休場した理由は「一身上の都合」とのみ発表され、様々な憶測を呼んだが、じつはうつ病のために入院していたのだ。そして1年の闘病を経て、今年6月に対局への復帰を果たす。

 エッセイの書き手としても知られる先崎九段はうつ病の発症から回復までの日々を新刊『うつ病九段』に綴っている。書籍の発売を記念し、本書の一部を特別に公開する。

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 昨年7月、順位戦を指した。ここで私は自分が本格的におかしくなっているのを自覚した。若手を相手に負かされて、それはいいのだが、対局中にまったく集中できないのだ。思考が全然まとまらず、読みもせずふらっと指してしまう。それでもまだ私はしばらく休めばなんとかなると考えていた。長年棋士をやっていれば気分に変調をきたして不様な対局をすることだってあるものさ、案ずることもあるまい……。だが、朝の気分はへこんでいく一方だった。

 ここからの10日間ほどは、まるではずみがついた滑車のように私は転げ落ちていった。日に日に朝が辛くなり、眠れなくなり、不安が強くなっていった。不安といっても具体的に何か対象があるわけではない。もちろん将棋に対する不安はあったが、もっと得体の知れない不安がわたしを襲った。そして決断力がどんどん鈍くなっていった。ひとりで家にいると、猛烈な不安が襲ってくる。慌てて家を出ようとするが、今度は家を出る決断ができないのだった。昼食を食べに行くのすら大変なありさまで、出ようかどうか迷った末に結局ソファで寝込んでしまい、妻の帰りを待つという毎日だった。

「おそらくうつ病だと思います」

 7月中に指した対局はどれも無残な惨敗だった。座っているのが精一杯。こんなことははじめてだった。私は後で知るのだが、妻と兄はこのころかなり頻繁にLINEで連絡を取っていたらしい。

先崎学九段 ©文藝春秋

 私の兄は優秀な精神科医である。以前の不調の時は「ま、しばらくよく寝るんだな」などといってほとんど相手にしてくれなかったが、今回はすっとんで来た。見た瞬間これは駄目だと見立てたのだろう。かかりつけの慶応病院にとりあえず行けといわれた。後で妻に聞くと、どうやらこの時点で最悪の状況に備えて入院の手続きがすぐできるよう取りはからってくれたらしい。すぐに病院へいくと、長い時間私の話を聞いてくれ、「おそらくうつ病だと思います」といわれた。今後のことは1、2週間様子を見て決めようということになった。

 毎日毎日もらった睡眠薬を飲んで、寝る前に明日このすべての症状が晴れて元の自分に戻っていますようにと神に祈った。もちろんそんなことがあるわけもないが、祈るよりなかった。