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感受性が強すぎた復興相、松本龍は失意のどん底で亡くなった

38歳で衆院議員に ©共同通信社

「復興相時代、被災地の知事を怒鳴り付けて辞任に追い込まれましたが、当時の高圧的な姿など想像もできないほどやせ細ってしまって……」

 旧民主党政権で環境相や復興相を歴任した松本龍氏が7月21日に肺がんで亡くなった。享年67。晩節を知る知人は「失言問題以降は失意のどん底。心身ともにつらい日々でした」と嘆く。

 部落解放同盟委員長だった松本治一郎氏を祖父に持ち、父の英一氏を継いで三代にわたって人権運動を支えた闘士。同じ福岡が生んだ麻生太郎副総理や古賀誠元幹事長ら自民党重鎮も一目置く存在だった。

 環境相時代の2010年には、COP10(生物多様性条約締約国会議)の議長国として資源の利用ルールを巡って対立する先進国と途上国を説得し、絶望的だった「名古屋議定書」の締結にこぎ着けた。途上国と丁寧に交渉する姿は人権運動家の片鱗を海外に知らしめた。

 ところが東日本大震災から4カ月後の2011年7月、訪問した宮城県庁の応接間で、遅れた村井嘉浩知事を「お客が来るときは自分が入ってから客を呼べ」と怒鳴り上げた。この様子がテレビニュースで伝えられると抗議が殺到、復興相就任からわずか9日で辞任した。旧民主党関係者の話。

「震災発生当初から防災担当相として被災地に入り、『子供の命を返せ』などと被災者に責められていた。赤坂の議員宿舎に戻ると、『俺に任せておけ』『助けてやる!』と叫ぶ声が部屋の外まで聞こえた。(6月に)復興相になる前からノイローゼだったんだ」

 失言問題直後に九州大病院に入院し、「気分障害による軽い躁状態」と診断された。旧友は「治一郎さんが創業した中堅ゼネコン・松本組の御曹司らしくボンボン気質で、ジャズやヨットをこよなく愛した趣味人。感受性が強すぎて被災地の惨状に耐えられなかった」と語る。周囲の反対を押し切って「ボロボロになっても被災地に尽くす」と12年の総選挙に出馬するも落選、政界から身を引いた。

 その後は、旧民主党の有力支持者だった松本組も政治とは縁遠くなった。松本家を知る人物は「人権運動に取り組んだ家柄だけに、目立てば叩かれると案じ、立ち振る舞いには人一倍気を使った。秘密主義が徹底していて、龍さんの近況が漏れることはなかった」と言う。22日の通夜は、あらかじめ供花を辞退した。家訓を貫き通した松本家の嫡男らしい最期だった。