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“思想史の書”ながら、山田風太郎のような面白さ

『プラハの墓地』 (ウンベルト・エーコ 著/橋本勝雄 訳)――鼎談書評

source : 文藝春秋 2016年5月号

genre : エンタメ, 読書

 

山内 世界的なベストセラー『薔薇の名前』などで知られるイタリアを代表する小説家、ウンベルト・エーコが今年2月、84歳で亡くなりました。本書は偶然にも、彼が亡くなったタイミングで日本語版が刊行されることになりました。

 舞台は19世紀のヨーロッパ。語り部となる主人公シモーネ・シモニーニは文書偽造家で、遺言から公文書まであらゆる偽造に手を染めています。実はこの物語、架空の人物は主人公だけ。イタリア統一運動でマッツィーニやガリバルディをまぢかに見、パリ・コミューン下のフランスを潜り抜け、ドレフュス事件に関与する……。歴史の流れの中に主人公を泳がせつつ、エーコは「陰謀家たちは最後に必ず責任を負う羽目になるだろう」という自身の歴史観を物語に投影していきます。

片山 ナポレオン以降のヨーロッパは近代ナショナリズムの時代を迎え、それと並行して「反ユダヤ主義」も盛んになります。この関係をエーコは描ききっている。史実として確認不能な、しかし大体そうであったに違いない闇の部分を、架空の人物に託し、歴史にはめこむことで、19世紀ヨーロッパの、普通の歴史からは見えにくい骨格を明らかにしている。驚くべき“思想史の書”であり、山田風太郎の明治物のような面白さにも溢れています。

増田 19世紀のヨーロッパにおける政治プロセスの“恐ろしさ”を改めて確認させられました。1870年、フランスではナポレオン三世が捕縛され、第二帝政から第三共和政に変わる。ところが普仏戦争で敗北し、社会は大混乱に陥る。そんな中、諜報活動をしているという冤罪で有罪になったのがユダヤ人のドレフュス大尉。フランスという国家が取った反ユダヤ主義を利用し、犠牲者を作りあげて国民を扇動していくという手法が、エーコの語り口から生々しく伝わってきましたね。

山内 すこぶる大胆に羅列されるヨーロッパの民族に対する偏見もすごいですね。〈ユダヤ人はスペイン人のようにうぬぼれが強く、クロアチア人のように無知蒙昧、レバント人のように強欲で、マルタ人のように恩知らず……〉とまで書きます。

片山 本書の“エセ人種理論”は、当時のいかがわしい反ユダヤ主義的書物を総動員して書かれていますね。エーコが執筆にあたって、内容的にはB級やC級に属する膨大なキワモノに当たったことが窺われます。国民国家を作るためには、日本なら薩摩と会津でいがみあっている人たちが同じ日本人だと思うようにせねばならない。それには共通の敵を作るのがいちばん。歴史の鉄則です。そこで19世紀ヨーロッパでは外からいつのまにか国内に浸透して「われわれ」を脅かすユダヤ人のイメージが敵として作りあげられる。

増田 本来比較すべき対象ではないかもしれませんが、私はこの記述を見て、アメリカ大統領選挙で渦巻いている“トランプ旋風”を想起せざるを得ませんでした。メキシコ人やイスラム教徒、日本人までを誹謗して喝采を浴びているのがドナルド・トランプです。そのような人物が今、まさに共和党の代表になろうとしている。エーコは、反ユダヤ主義を描くことによって、今日の反知性主義、排外主義への警鐘を鳴らしているような気がしてなりません。

片山 19世紀の反ユダヤ主義はナチズムにつながります。本書の重要な部分を担う史上最悪の偽書「シオン賢者の議定書」はヒトラーの『わが闘争』にも引用される。

 その流れは増田さんのおっしゃるように今に結び付くでしょう。トランプしかり、韓国の反日運動、日本の嫌韓運動しかり。21世紀にも蔓延する“愛国”の下品なノリの根源を、エーコは19世紀を舞台に小説にした。凄まじい力わざです。

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