昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

天皇皇后両陛下はなぜ軽井沢を愛されるのか

お二人が出会われた思い出の地。「国民と共に」ある皇室像はこの場所で育まれた

2018/08/26

source : 文藝春秋 2014年9月号

genre : ニュース, メディア, ライフスタイル, 社会

 天皇皇后両陛下が毎年のように訪れる軽井沢。「テニスコートの恋」として知られる、お二人の出会いの地であり、「国民と共に」ある平成の皇室像が育まれた場所である。ノンフィクション作家の奥野修司氏が現地を訪れ、お二人が「素顔になれる場所」の秘密を探った。(出典:文藝春秋2014年9月号)

◆ ◆ ◆

被災者の前で膝をついた両陛下

「あの日は体育館に400人ほどいたでしょうか。両陛下はスリッパも履かずに被災者の前に行かれ、いきなり膝をつかれたかと思うと、『大変でしたね』と、被災者の目線に合わせて話しかけられたのです。それも一人ひとり膝をつかれては立ち上がり、また膝をつかれるのですから、ほんとに驚きました」

 平成2年(1990)11月、長崎県の雲仙普賢岳が噴火し、翌年6月の火砕流で40人が犠牲、1万1000人が避難生活を強いられた。その約1カ月後の7月10日、両陛下は被災者を見舞われたが、案内した元長崎県知事の高田勇は蒙を啓かれた思いだったという。高田と共に両陛下を案内した元島原市長の鐘ヶ江管一も感極まった。

「来てくださっただけでも十分なのに、床に跪かれる。感激して涙を流している人もいました。日本人に生まれてよかった。両陛下から生きる勇気をいただいたのです」

「ひざまずく必要はない」批判もあった平成流

 天皇皇后が被災者の前で膝を折って見舞われるというスタイルは多くの人を驚かせたが、批判がなかったわけではない。とくに昭和天皇の時代を生きた人たちから強い不満が飛び出した。たとえば、評論家の江藤淳はこう書いている。

〈何もひざまずく必要はない。被災者と同じ目線である必要もない。現行憲法上も特別な地位に立っておられる方々であってみれば、立ったままで構わない。馬上であろうと車上であろうと良いのです〉(「文藝春秋」95年3月号)

 両陛下は世情に敏感だが、たとえ批判を受けようと、被災者を見舞うのに跪かれて声をかけられるスタイルはその後も続けられた。阪神淡路大震災でも、東日本大震災でも変わらなかったのは、それが昭和とは違う新しい皇室のかたちだったからだろう。

「国民と共に」行動する天皇

 天皇は即位にあたり、象徴天皇の在り方をこう述べられている。

「(昭和天皇が)国民と苦楽を共にされた御心を心として、常に国民の幸福を願いつつ、日本国憲法を遵守し、日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たす」

「憲法を守る」と同時にキーワードとなるのは「国民と共に」である。それは、国民と同じ目線で、とも解釈できる。私たちは被災者を慰めるのに立ったまま対面することはない。やはり跪いて言葉をかける。「国民と共に」行動する天皇も、我々と同じ感覚で被災者を見舞われたのだ。

 平成8年に、皇后は「国の大切な折々にこの国に皇室があって良かったと、国民が心から安堵し喜ぶことの出来る皇室でありたいと思っています」と述べられたが、跪く天皇皇后のお姿に、それが結実しているように思う。それにしても、国民を驚かせたこのスタイルはいつ生まれたのだろうか。そこには両陛下が毎年夏に滞在された「軽井沢」が大きく関わっているといわれる。

©文藝春秋

皇太子時代の3つの新しい経験

 昭和62年9月、天皇(当時は皇太子)は訪米に先立ってこう述べられた。

「バイニング夫人とお会いするのは9年ぶりになります。(略)思い出としては、いろいろありますが、軽井沢で泊めていただいた3日間が、思い出深いものです」

 バイニングとは、昭和21年から25年まで、当時皇太子だった天皇の家庭教師をつとめた女性である。彼女は『日本での四ケ年 皇太子と私』の中で、〈今年(昭和二十四年)の四月以来、殿下の新しい御生活の幅が広められ、私の知っている限りでも、三つの新しい経験をなさいました〉と綴っている。三つの経験とは、皇太子がGHQのマッカーサーを訪問したこと、軽井沢でバイニングを訪問したこと、西洋の少年と過ごしたことである。

 なかでも、バイニングが軽井沢で借りた三井家の別荘に3日間宿泊したことがよほど印象的だったのか、翌25年から、天皇は毎年夏になると旧朝香宮の別荘だった千ヶ滝プリンスホテルで過ごされるようになった。

皇太子誕生日にA級戦犯が絞首刑に

 この時分、昭和天皇だけでなく、皇太子もマッカーサーを訪問したように、皇室は緊迫の度合いを増していた。

 日本がポツダム宣言を受諾したあとも天皇の地位が定まらず、「退位論」が現実味をおびていた。マッカーサーに天皇を退位させるつもりはなかったといわれるが、その意思が公にされたわけではない。昭和23年、東京裁判の判決が近づくと、当時のメディアはさかんに「天皇退位」を取り上げ、そしてA級戦犯が、皇太子誕生日に絞首刑にされた。皇太子が、軽井沢を訪れたのはその翌年であった。

この記事の画像