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「高畑勲監督解任を提言したあのころ」――鈴木敏夫が語る高畑勲 #2

2018/08/11

  今年4月、映画監督の高畑勲さんが亡くなった。プロデューサーとして支えてきたスタジオジブリの鈴木敏夫氏が語る高畑さんの記憶――それは決して美談ではなかった。(#1より続く)

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 当時、高畑さんが作りたがっていたのが『平家物語』でした。企画としてはおもしろいものの、誰が絵を描くのかという問題がありました。宮崎駿が「平家の戦いのシーンを描けるとしたら自分しかいない」と豪語していたほどで、技術的にも非常に難しいことは分かっていました。高畑さんは『山田くん』でも活躍した田辺修に描いてもらおうとするんですが、田辺も頑固な男で、「自分は人が人を殺す話は描きたくない」と言う。

 そこで僕が持ち出したのが『竹取物語』でした。言わずとしれた日本最古の物語で、高畑さん自身、「誰かがいちどきちんと映画にすべきだ」と言っていたのを思い出したんです。あらためて高畑さんにその話をすると、「誰かが作るべきだとは言いましたが、自分がやるとは言っていない」と言います。

鈴木敏夫氏 ©文藝春秋

「かぐや姫はなぜ地球を選んだのか」

 僕は、氏家さんが死ぬまでにどうしても高畑さんの作品を見たいと言っていることを伝えました。他にいい企画もないし、竹取物語なら人が人を殺すシーンもないから、田辺くんも協力してくれると言っている。そういう話をしながら説得していると、高畑さんが突然こんなことを言ったんです。「じゃあ、ひとつ教えてください。姫はなぜ数ある星の中から地球を選んだのか。これが分からないと映画にできないでしょう」。それは高畑さんが考えてくださいよ、と言いたいところですが、そういう問答をプロデューサーと延々続けて、一定の時間を共有しないと先に進まない人なんです。そういう議論を始めたら止まらなくなって、夜中どころか平気で朝まで話し続けます。

 とくに企画段階では、最低でも毎日10時間はそういう話をしなきゃならない。でも、僕としては正直なところ、もうそういう作業をやりたくなかったし、他の作品を抱えていて時間もありませんでした。そこで、若い西村義明と岸本卓の2人を高畑さんの話し相手として送り込むことにしたんです。若さゆえに言えることもあるし、高畑さんにとっても新しい相手と話したほうが刺激があっていいだろうという目算もありました。実際に始めてみると、若い2人が熱心に話を聞いてくれて、高畑さんはうれしそうにしていました。

 僕は定期的に2人の報告を聞いていたんですが、途中で高畑さんが企画を変えたがっているという話が伝わってきました。赤坂憲雄さんが書いた『子守り唄の誕生』という本を原案にして、ドラマを作れないかというのです。でも、それは難しいだろうということも分かっていました。紆余曲折を経ながらも、案の定、企画は『かぐや』に戻ることになり、正式に制作にとりかかることになりました。

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