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心の支えは「好き」でさえあればどんなものでもいい

吉村萬壱が『ディス・イズ・ザ・デイ』(津村記久子 著)を読む

2018/08/25
『ディス・イズ・ザ・デイ』(津村記久子 著)

 津村さんは最初に勤めた会社でひどいパワハラを受け、九ヶ月で辞めて次の会社に移った。津村文学の核は、弱い者を虐げる無慈悲な力に対する怒りである。登場人物たちは生き延びるためにそれぞれの「心の杖」を握りしめる。それは、うどん、カレーライス、自転車、音楽、友達など様々であるが、横暴な力の前には余りにも非力なものばかりで涙を誘う。

 しかしどんなものでも好きでさえあれば心の支えになることを、彼女の作品は静かに教えてくれる。これらの「心の杖」を梃子にして登場人物は何とか生きる力を回復し、人生の悲哀と共に何か普遍的な境地へと解放されていくのである。

 私は子供の頃からスポーツが苦手で、サッカーも全く見ない。もう何年も津村ファンだが、従って新聞掲載時は本作を一行も読まなかった。そして、対談を機に初めて読んだ。単なるサッカー万歳小説だったらどうしようと危惧しながら。

 しかし結果は大変に面白く、これは紛れもない津村文学であると分かった。サッカー二部リーグの贔屓のチームの存在とクラブの応援が、登場人物たちにとっての「心の杖」なのだ。しかしそれは勿論魔法の杖ではない。登場人物たちは、それぞれの人生と同様チームの浮沈に一喜一憂せねばならず、時としてなぜこんなことをしているのだろうと自問する始末。押しつけがましさは一切ない。

 十一話は全て年間四十二試合の最終節の「その日」が舞台で、市井の人々のそれぞれの人生がスタジアムの喧噪の中で光を浴びて、独自の陰影を深める。

「人々はそれぞれに、自分の生活の喜びも不安も頭の中には置きながら、それでも心を投げ出して他人の勝負の一瞬を自分の中に通す。それはかけがえのない時間だった」(「海が輝いている」)

 本作を読んでも一向にサッカー好きにならない私を笑って認めてくれる視線の低さこそが、巨悪に対する津村さんの最大の武器だと私は思う。

つむらきくこ/1978年大阪府生まれ。2008年『ミュージック・ブレス・ユー!!』で野間文芸新人賞、09年「ポトスライムの舟」で芥川賞、13年「給水塔と亀」で川端康成文学賞、17年『浮遊霊ブラジル』で紫式部文学賞。

よしむらまんいち/1961年生まれ。東京と大阪で高校教諭・支援学校教諭を務める。「ハリガネムシ」で芥川賞。『ボラード病』ほか。

ディス・イズ・ザ・デイ

津村記久子(著)

朝日新聞出版
2018年6月7日 発売

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