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池田“やまびこ打線”はなぜ、PLの1年生・桑田真澄に翻弄されたのか【夏の甲子園100回! ベストシーン】

1983年 PL学園7-0池田

2018/08/17

今年で第100回を迎えた“夏の甲子園”。
その 100年を超える歴史は名勝負の歴史でもあります。波乱・衝撃、旋風、怪物、ライバル、そして大逆転・・・・・・。
「甲子園」というフレーズだけで、さまざまな場面がよみがえってきます。
そのなかから、もう一度振り返りたい“ベストシーン”をご紹介します。
【1983年(昭和58年) 第65回 準決勝 PL学園[大阪]7-0池田[徳島]】

 

『夏の甲子園 名勝負ベスト100 (文春MOOK)』より

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 試合前の下馬評では、「池田有利」という声が圧倒的だった。PL学園の中村順司監督は、試合の前夜、総合力では池田が上にあることを認めつつも、「もし負けたとしても、(試合後の取材で)池田はやっぱり凄かったとか、水野は速かったという言葉は口が裂けても言うな」と選手たちにクギを刺していたという。

PLを引いた池田の慢心「よし、勝った」

 “やまびこ打線”を前面に押し出し、エース畠山準を擁して前年夏の甲子園で初優勝を成し遂げると、続く春のセンバツは“阿波の金太郎”水野雄仁で制覇。この夏の大会を制すると、史上初となる甲子園3連覇の偉業となる。初戦の太田工(群馬)を8-1で一蹴すると、その後も順調に勝ち進み、準々決勝で最大の難敵と見られた中京(現・中京大中京、愛知)を3 -1で撃破しベスト4進出。いよいよ頂点まであと2つまで来ていた。

 準決勝の組み合わせ抽選。江上光治主将が引いた相手はPL学園。池田のすべての選手が「よし、勝った」と思ったという。ベスト4の残りの2校は横浜商と久留米商。センバツ決勝戦の再戦となる横浜商、練習試合で苦戦した久留米商は、どちらも大会前から警戒していたチームだった。PL学園が一番与(くみ)し易い相手と考えられた。根拠がある。PLが準々決勝で10-9と辛勝した高知商は、池田がこれまで四国大会などで3度対戦して3連勝。圧倒してきた相手だ。エース津野浩(元日本ハム)を打ち込み20点取ったこともある。そのチームにやっとの思いで勝ったPLは大したことがない、と三段論法が成立する。しかし、そこに慢心が生まれていた。

KKコンビが甲子園に初登場

 この年のPLは、前年センバツの優勝校ではあるが選手が入れ替わり、二人の1年生が中心となっていた。桑田真澄(元巨人)と清原和博(元西武ほか)。のちに「KKコンビ」と呼ばれた二人である。清原は入学直後から主軸に座り、夏の大阪府大会で打率4割の2本塁打。不動の4番打者となっていた。桑田も府大会に背番号17番でベンチ入りし、先発に起用された試合で好投。甲子園では背番号11番ながらも実質的なエースとして、初戦の所沢商戦を5安打2失点に抑えた。以降の試合もほとんど先発を任されていた。1年生がエースと4番。それも池田の油断を生み出す要素となっていた。

この試合、無安打だった清原。甲子園通算では40安打、13本塁打という記録を残している ©AFLO