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池田高・蔦文也監督が選手たちに頭を下げた「あの夜」【夏の甲子園100回! ベストシーン】

1982年 池田12-2広島商

2018/08/19

今年で第100回を迎えた“夏の甲子園”。
その 100年を超える歴史は名勝負の歴史でもあります。波乱・衝撃、旋風、怪物、ライバル、そして大逆転・・・・・・。
「甲子園」というフレーズだけで、さまざまな場面がよみがえってきます。
そのなかから、もう一度振り返りたい“ベストシーン”をご紹介します。
【1982年(昭和57年) 第64回 決勝 池田[徳島]12-2広島商[広島]】

 

『夏の甲子園 名勝負ベスト100 (文春MOOK)』より

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就任20年目まで甲子園に行けなかった名将

 名将・蔦文也の監督人生は、負けからスタートしている。

 戦後、社会人野球で活躍し、プロ(東急)も経験。帰郷して池田高校の教諭になると、昭和27年に野球部の監督に就任した。猛練習で強豪チームを作るが、毎年あと一歩のところで負け続け、甲子園には届かなかった。ようやく壁を破ったのは、昭和46年夏。南四国大会決勝戦で徳島商に延長10回、5-4でサヨナラ勝ち。監督就任20年目にして、悲願の甲子園初出場を果たした。

 49年センバツでは部員11人で準優勝。「さわかやイレブン」と脚光を浴びたことで、県内の有望選手が集まるようになり、次第に甲子園の常連校になっていく。昭和54年夏にも準優勝。いよいよ頂点を見据え始めたチームに、逸材がやって来る。

「5季連続甲子園に行ける」はずだった畠山のラストチャンス

 四国はおろか関西の強豪校からも多数の誘いを受けていた畠山準(元横浜ほか)を、蔦監督自ら足を運び口説き落とした。徳島県民は「畠山がいれば5季連続甲子園に行ける」と噂したという。しかし昭和55年夏、県大会決勝戦で徳島商に敗れたのをきっかけに、またもや、あと一歩で勝てない連鎖に陥る。出場を逃し続け、畠山にとっては最後のチャンスとなるこの夏、県大会で感じたプレッシャーは凄まじかった。決勝戦で宿敵徳島商を6-3で下し甲子園出場を決めた時には、蔦監督も選手も、喜びと同時に強い安堵感があった。

 甲子園では僅差のゲームが続いたが、準々決勝で爆発する。早実のエース荒木大輔を、2年生の江上光治、水野雄仁のホームランなどで打ち崩し、20安打の猛攻。14-2で圧勝。一気に大会の主役に躍り出る。