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突きつけられる「私とはいったい何者か?」の問い

『私の消滅』 (中村文則 著)――鼎談書評

source : 文藝春秋 2016年9月号

genre : エンタメ, 読書

 

亀山 中村文則さんは、芥川賞を獲った『土の中の子供』以来、注目して読んできた作家です。それから彼自身も大きく変化していますが、作品のテーマは変わらず、絶対悪と対峙する人間を書き続けています。2009年の『掏摸(すり)』は、今後これ以上のものが書けるのかと思わせるほどの傑作でした。今作はタイトルにまず惹かれて興味津々で読み始めたのですが、これまでの彼の作品同様、読者を否応なく引き込んで行くパワーは生半可ではない。ぐいぐい読みました。「このページをめくれば、

 あなたはこれまでの人生の全てを失うかもしれない」

 との思わせぶりな言葉で始まり、ある男の連続した手記という形で物語は展開します。ミステリーでもあるので、内容は「読んでください」と言いたいところですが(笑)、読み終えて、よくもまあこれほど複雑な仕組みを考えたと驚きました。

片山 私もおもしろく読みました。内容は、まさにタイトル通り『私の消滅』。プロットも緻密で、読者が手がかりにする前提をひとつずつ巧妙に崩しながら、それでいてストーリーは破綻することなく最後にぴたっと収まります。とにかく「私」が居ると思ったら結局居なかったという展開がたいへんうまく書かれている。このくらいならネタバレにならないでしょうか(笑)。

亀山 私は3回読み、3回目にこの本の魅力を掴んだ気がしました。最初に読んだときは、文体で引っかかってしまったんです。おそらく書き直すことなく思ったままに書かれた文章は、まるで一筆書きのような粗さ、荒々しさ。だからこそこの世界観を崩さず、ストーリーにリアリティを与えてくれるんですね。

山内 この粗い文体は、筆者のわざわざ意図した企みなんだ。

亀山 ええ、中村さんは『掏摸』ではかなりかっちりとした文体を使っているので、計算して今回は一筆書きにしたのでしょう。これまでの作品のなかでも、この作品は一番文体が粗いかもしれませんね。このようにプロットをきっちりと練り上げたうえで、浮かんできた1回限りの文章で勝負した作品を、文学と認めるか否か。その瀬戸際に位置している本と言ってもいいと思います。

片山 でも、この本が美しい日本語で書かれていたら、「よくできたお話」で終わってしまうかもしれません。粗いからこその臨場感が読者をつかまえて離さない。

亀山 ドストエフスキーも、実はすごく粗い文体なんですよ。翻訳者が飾って飾って……(笑)。もしドストエフスキーが日本語に訳された自分の作品を読んだら驚くでしょうね。今回の中村さんと近いものがあります。

片山 人に他人の記憶を刷り込むことがストーリー上の大きな仕掛けですが、それはかつてSF作家のフィリップ・K・ディックがよく使った手です。本作に限らず、最近は純文学がSF化している傾向がよく指摘されていますが、今の世の中では作家の想像力を上回るような異常なできごとばかり起きるので、かつての純文学のくくりではなかなか現実に太刀打ちできない。そこでSF化しがちなのでしょうが、SF的大仕掛けのつもりで先を読んだつもりでも、すぐ現実に追い抜かれてしまう。作家にはなかなか厳しい時代です。

亀山 設定があまりに大掛かりになると、言葉が追いつかず、映像の方が向いている。その点、中村さんはほどよく現実社会に追いついていると言えるのではないでしょうか。