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工場夜景ツアー、怪談クルーズ……「はとバス」はなぜ不思議な企画を次々と仕掛けるのか

50年後の「ずばり東京」――はとバスは進化し続ける#2

2018/08/31

1964年、東京五輪とともに空前の東京観光ブームが到来した。当時のはとバスの利用者は年間123万人と、過去最高記録を更新。それから50年以上の歳月が流れたが、いまなお「はとバス」は新しい東京の魅力を伝え続けている。(全2回の2回目/#1 はとバス「バスガール」が経験した「東京五輪の熱気」と「地獄のような研修」より続く)

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ドライバーが記録した手描きの「東京」

 1970年に運転士として入社した森山幸與(こうよ)さん(72)は、運転席から東京と会社の変化を見てきた。

「元は運送会社のドライバーをやっていたのですが、観光バスの運転士に憧れて24歳で中途入社しました。当時、観光バスの運転士と言ったら一目置かれる存在。道路で観光バスと行き合った時には必ずバスに道を譲りました。観光客を乗せているのと荷物とじゃ全然違いますからね。しかも道を譲った時に白い手袋を上げて『どうもありがとう』って言ってくれる姿が格好良くてね、ものすごく憧れました」

 念願叶って運転士になった森山さんは、十分な道路標識すらない東京近郊を勘を頼りに走ったという。

©佐藤亘/文藝春秋

「当時はどんどん新しい道路ができていたでしょ。まだ地図なんてないですから、よく道を間違えましたよ。先輩のバスについて走っていても見失っちゃうものだから、そんな時はタイヤの轍とか排気ガスの残り具合を見て、『こっちだ!』て。初めて走った道は自分で地図を描いて帰って、運転士全員で情報交換しました。そうでもしなきゃ東京の変化にはついていけませんでしたから。今はカーナビもあるから便利ですけど、それでも大型のバスが通りづらかったり、駐車しづらかったりする道はあるんですよ。そういうところに行った運転士たちは今でも手描きの地図を描いて帰ってきて、それを全運転士で共有する。本社には当時から今までに描かれた地図が全てファイルしてあって、運転士は誰でも閲覧できます。不便な時代に生まれた習慣が今も受け継がれて、それにより安全で快適な運転ができている。それは当時苦労した私たちからしたら大きな誇りです」

オイルショックで訪れた「転機」

 オリンピックの熱気が冷めると一転、はとバスの業績は陰りを見せ始めた。高速道路の開通やマイカーの普及が急速に進んだことで、観光バスのニーズが激減したのだ。それに追い打ちをかけるように1973年、オイルショックが勃発。燃料の調達が難しくなり、定期観光コースの本数を削減せざるを得なかった。

 当時入社4年目だった森山さんは、都内観光で経験を積んだ後、徐々に長距離旅行の運転を担当するようになっていた。

「長距離運転はまだ駆け出しだったので、メインの運転士の交代要員として乗車していたんですけど、オイルショックの時期はほとんど“交渉要員”でしたね(笑)。なにせ地方に行くとガソリンを売ってくれない。『地元の人が優先だから、外の人には売らないよ』て。それはもう頭下げるしかないです。『東京まで帰れないんです』って。それでしぶしぶ30リッター売ってもらって、また次のスタンドで交渉して30リッター。継ぎ足し、継ぎ足しして、なんとか東京まで帰っていましたね。しかも当時のバスは馬力がないでしょ。高速道路でエンストしたりでもう大変。そういう意味ではオイルショックというのは観光バスにとって大きな転機で、それ以降ガソリンタンクが一気に大きくなったり、馬力がアップしたんです。おかげで安心して長距離走行ができるようになって、この頃からどんどん遠方へ行くツアーが増えました」

 オイルショックによる低迷にあえいでいたはとバスは、バブル景気で業績を回復させたものの、バブルが崩壊すると不況がレジャー業界全体を直撃。1995年の阪神・淡路大震災や地下鉄サリン事件もあり、深刻な経営危機に陥った。

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