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「高校生は絞るほど答えを出す」 智弁和歌山・髙嶋仁監督が厳しさを貫いた理由

2018/09/02
仁王立ちは甲子園名物だった ©文藝春秋

 8月25日、智弁和歌山野球部を38年にわたり率いた髙嶋仁が勇退を発表した。

 筆者が髙嶋の話を聞きに同校を訪ねたのは、今年7月半ばのこと。県大会期間中に時間を割いてくれたことに謝意を伝えると、黒々と日焼けした72歳は「どこの記者も無理ばっかり言う」と笑みを見せ、創部以来の様々なエピソードを語ってくれた。

 若かりし頃の髙嶋の指導は、苛烈の一言に尽きる。練習試合では“ハンディ”を設定し、1点足りないごとにグラウンド両翼のポール間100本走を課した。「20点差で勝てる」と髙嶋が踏んだ相手に15点差しかつけられなかった時には、部員たちはポール間を500本も延々走り続けたという。

 それほどの厳しさを貫いた理由を、髙嶋は簡潔に言った。

「高校生は、絞れば絞るほど答えを出してくれる」

 奈良の智弁学園で指導を始めた頃からの信念は和歌山に移っても変わることはなく、加えて負けず嫌いの性分が髙嶋の頭を熱くさせた。

 草創期の大阪桐蔭で監督を務め、髙嶋とも縁の深い長澤和雄が呆れ顔で思い返す。

「ダブルヘッダーの練習試合で1試合目に負けると、昼飯を食べないんです。『選手がかわいそうやから食事してください』って言うんですけど、黙々とノックしてました。頑固もんですよ」

 08年には部員を蹴ったとして謹慎処分を受ける。それ以降はバックネットを隔てて叱るようにし、鉄拳は封印。なおも怒りの収まらない時は、ユニフォームを洗う洗濯機が犠牲になった。

 甲子園歴代最多68勝を挙げた名将も、近年は病との闘いを余儀なくされた。7月の段階でこんな話をしていた。

「ノックは医者に止められとるんです。ずっと続けてきた高野山に登るのも禁止された。『何であかんのですか』と聞いたら『行ったら死ぬぞ』と言われてね。10年も20年も生きやんでいいけど、あと4、5年は生きたいなあと思う。だから医者の言う通りにやっとるんです」

 今夏の第百回記念大会は1回戦で敗退し、これが髙嶋が甲子園で戦った103試合のラストゲームとなった。今後は智弁学園・智弁和歌山両校の名誉監督として、宿敵と睨む大阪桐蔭を倒すべく、情熱を傾ける。