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佐久間 文子
2016/08/25

【著者は語る】写真には相撲の立ち合いみたいなところがある

『靴底の減りかた』 (鬼海弘雄 著)

source : 文藝春秋 2016年9月号

genre : エンタメ, 読書

鬼海弘雄氏

見る側を射抜く人物写真で知られる写真家が、さまざまな場所に足を伸ばして考えたことをつづるエッセイ集である。地に足のついた、それでいて広がりのあるタイトルがすばらしい。

「なにしろ、立っている自分の影の幅ぐらいの狭い範囲のことしか書いていませんから。昼間、日が真上に来た時は本当に狭くて、夕方になると影が少し伸びる(笑) 。ものごとを観念的に分析したりすることは私にはほとんどできません」

 ゆっくりと、たゆたいながら街を眺め歩く人の文章からは、その日の天気や気温だけでなく、湿度やにおいまで伝わってくる。

「ほかにすることがないのでね。決まった仕事をもっていないから、行きたいときに行きたいところへ行くことができるんです」

 レンズでとらえたように、街並みや出会った人々の顔貌が描写され、忘れがたい印象を刻みつける。驚くのはその記憶の確かさで、数十年前に撮影した人の顔を雑踏の中に見分けることもできるという。

「それだって、ほかに覚えることがないからでしょう(笑) 。人物を撮るとき、すごいインパクトが相手からうわーっとやって来ない限り、私はシャッターを押さないんです。だから本当にフィルムを使いません。一日歩いて、十二枚撮りを一本、使いきらないことがありますよ。写真には相撲の立ち合いみたいなところがあって、ある程度、その人を観察していないとだめ。振り向いたときに、すごい人が通っても、なかなか声はかけられません」

 目の前にある瞬間をとらえつつ、くりかえし過去に立ち戻っていく文章である。好きな文章家を聞くと、幸田文、武田百合子、向田邦子、須賀敦子と、女性の名前ばかりが挙がる。

「自分の文章を読むと、生まれ故郷の(山形県)醍醐村から一歩も離れてないですね。ものを考える根拠は、たぶん、そういうところにあるんだと思います」

 本では、地道な暗室作業への愛着が語られる。若いころは写真のラボで働いたこともあるし、トラック運転手や、マグロの遠洋漁船に乗り込んだ経験もある。

「肉体労働をした経験は、人を見る訓練になったと思います。もちろん当時はそんなことを考えていたわけではなく、一時しのぎの金稼ぎだったわけですけど、表現の世界に入るなら無駄にはならないだろうとも思っていました」

靴底の減りかた (単行本)

鬼海 弘雄(著)

筑摩書房
2016年7月14日 発売

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