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1987年10月3日、大洋・遠藤一彦が三塁に走ったあの日のこと

文春野球コラム ペナントレース2018

2018/09/17
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何事にも“ずっと”はないんだな

 まるでスローモーションを見るようだった。そのまま三塁ベースへ倒れこみ、動くことができない遠藤。13歳の自分にも、それが捻挫や肉離れといった類のケガではないことはすぐわかった。立ち上がることも出来ず、担架に乗せられて三塁ベンチに退場していくエース。何時間にも何十時間にも感じるほど辛い光景だった。夜のニュースでは、右足アキレス腱断裂と報じられた。

遠藤一彦 ©時事通信社

 翌日の神奈川新聞スポーツ欄には【遠藤 右足アキレスけん断裂】の見出しと背負われて病院へ向かう姿、三塁に倒れこむ姿の写真が大きく掲載された。遠藤は球場から自宅に電話し、家族に「もうだめだ」と伝えたと記事には記されている。三度目の最多勝どころか、あの遠藤一彦がもう投げられないかもしれない。そう思うだけで涙が出そうだった。篠塚がエラーしなければ。果敢に三塁を狙わなければ。考えても仕方ないことが頭をよぎる。まだ子供だった自分は、遠藤がこんな形でいなくなるなんて信じたくなかったのだ。

 しかし同時に、「何事にも“ずっと”はないんだな」ということを学んだのがこの一件だった。特に87年は古葉竹識監督の就任で加藤博一の出場機会が減りスーパーカートリオは解体、高木由一がシーズン中に引退、田代富雄や山下大輔、若菜嘉晴も控えに回るなど、近藤貞雄監督時代の「荒っぽいけどアグレッシブなチーム」の雰囲気が一掃されるなど、チームが変わる年だった。遠藤のケガはショックだったけど、この1年のホエールズの出来事で、13歳の僕は少しだけ大人になったように思う。

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 遠藤は奇跡的に復活し、90年には6勝21セーブを挙げカムバック賞に輝いている。昔のように高速フォークで三振を獲りまくる投球は鳴りを潜めたものの、あれだけのケガをした後にホエールズ最後の年、92年まで5年間も投げられたのは元エースの意地だったはずだ。現役時代に優勝はできなかったけど、二軍投手コーチ時代の98年、あの10月8日に田代富雄とともに横浜スタジアムのパブリック・ビューイングに登場。遠藤がその瞬間を大観衆と共に迎えられたのは、ベイスターズが優勝したことと同じくらい嬉しい光景だった。

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