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カラー図版で蘇る戦禍に消えた大イベント

『幻の東京五輪・万博1940』 (夫馬信一 著)――鼎談書評

source : 文藝春秋 2016年4月号

genre : エンタメ, 読書

 

片山 1940年に東京五輪と札幌冬季五輪と東京万博が予定されていたのに、日中戦争の泥沼化で開催返上に至りました。しかし、準備はかなり進んでいた。その準備や計画をヴィジュアルで大いに楽しませる本です。エンブレムやポスターのデザイン。浜離宮沖を埋め立てた会場や、現在夢の島公園がある場所に建設予定だった「東京市飛行場」などの都市計画。幻の大イベントがカラー図版もたっぷりに蘇ります。資料の集め方が凄い。歴史好きの街歩きファンには必携の1冊でしょう。

竹内 僕は横浜在住ですが、横浜が万博会場の候補地になっていたのは興味深かったですね。山下公園は第2会場となるはずだった。30年に完成した時の山下公園の写真はノスタルジックですが、実は現代とそんなに景観は変わっていないのにも驚きました。2020年の東京五輪も、サッカーなど一部の競技は横浜で行われる予定です。

山内 私は現在の五輪をめぐる混乱と重ねあわせて読み終えました。例えば、当時も「会場をどうするか」という問題は、現在の新国立競技場を巡る騒動に負けず劣らぬ迷走を繰り広げていました。

 40年の五輪で使う予定だった競技場の設計担当は東京帝国大学工学部教授の岸田日出刀。アシスタントは前川國男や丹下健三など錚々たる顔ぶれです。岸田教授は競技場の現場として纏まりかけていた神宮外苑案を「狭い」と一蹴。代替案として代々木の陸軍練兵場を挙げますが、陸軍は当然、この提案に難色を示します。揉めた挙げ句、最終的に落ち着いたのは駒沢ゴルフ場。こういう「五輪裏面史」は、きたる20年に向けた我が国の取り組みに一つの教訓を与えてくれるでしょう。

当時のデザインは素晴らしい

竹内 ポスターやチケットの表記が「オリ“ム”ピック」となっているのも歴史を感じました。当時の印刷物を見ていて気が付いたのですが、日本語表記の方法が統一されていません。一方、今は教科書の字体と寸分違わない漢字で書かないと先生がバツをつけるほど極端な統一の方向が問題になる時代です。

片山 「M」を「ム」で書くのは発音的により正しいので、素晴らしい日本語表記の習慣だったと思います。それはともかく、この時代の日本語表記は自由すぎて国家的問題になっていました。何しろ、上からでも右からでも左からでも書いていい(笑)。漢字の使い分けや仮名遣いも多分にアナーキー。日本は「大東亜共栄圏」の基軸通貨を円、共通言語を日本語にしたかった。しかし、これでは日本語は広めようがない(笑)。戦後の厳格な日本語表記の追求はその反動でしょう。

山内 私は旧字や本字の素晴らしさを改めて感じました。私たちが戦後に学校で習った「新字」は最初からどうも安っぽくて、知的に見えませんでしたね(笑)。中国の簡体字を見て感じる抵抗感と同じです。一方、憂鬱の「鬱」など、新字にしてもよい難解な漢字はそのまま放置しているので困ったものです。

 パンフレットやエンブレム、入場券などのデザイン感覚や洗練されたモチーフも、現代を生きる私たちの世代感覚で見てもなかなか素晴らしいと思います。印刷物の紙の質や惜しげもなく色を使った多色刷り。カラーページに万博回数入場券の写真が載っていますが、このデザインは堂々としていますね。

竹内 いまは「ビジネスのためのデザイン」が完全に作られています。デザインを採用する際には広告代理店が必ず入って次の展開を考える。後々の商品化しやすさや、使いやすさが先行するので、シンプルなデザインが好まれる傾向にあるわけです。そういう意味では、戦前は純粋な「デザインのためのデザイン」がされていたと言えるでしょうね。

片山 東京五輪のポスターのデザインは和田三造ですね。映画『地獄門』で1954年にアカデミー賞の衣装デザイン賞を受ける。建築もデザインも戦後につながるタレントが結集していたのですね。

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