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稲泉 連
2016/10/18

妻と長女を亡くした那智勝浦町長 背中を見つめた長男の決意…復興誓う親子の絆

旬選ジャーナル 9月4日、産経WEST

source : 文藝春秋 2016年11月号

genre : ニュース, メディア

稲泉連氏

 今から五年前の二〇一一年九月、紀伊半島を襲った台風一二号は、和歌山、奈良、三重の三県を中心に甚大な被害をもたらした。同年の東日本大震災に隠れて見え難いが、「紀伊半島豪雨」と名付けられた豪雨災害の死者・行方不明者は八八名。土砂ダムが作られた奈良県十津川村では長期間にわたって緊張が続いたことでも知られる。

 この紀伊半島豪雨を皮切りに、日本では毎年のように激しい水害が続いている。翌年の九州北部豪雨、翌々年には京都の桂川が氾濫し、さらに広島での土砂災害、鬼怒川の堤防が決壊した関東・東北豪雨が続いた。今年は岩手や北海道で痛ましい台風被害が生じたばかりだ。

 そんななか、インターネットのニュースの見出しを眺めていて、目を引かれたのが九月四日付の産経新聞の記事だ。

〈妻と長女を亡くした那智勝浦町長 背中を見つめた長男の決意…復興誓う親子の絆〉

 紀伊半島豪雨で大きな人的被害が生じた一帯に、「那智谷」と呼ばれる地域がある。那智大社に向かう途中の市野々や井関といった地区で、土石流による死者・行方不明者は二九人にのぼった。九月四日は災害からちょうど五年目。記事は慰霊祭の模様を伝える内容である。

 災害の一年後から、私は当時の状況を取材するため、この「那智谷」や十津川村を何度か訪れた。なかでも胸に焼き付いて離れないのが、記事にある那智勝浦町長・寺本眞一氏のことだった。

 市野々地区の出身である寺本氏は、深夜の土石流で自宅にいた妻と娘の早希さんの二人を亡くした。発災直後に発見された早希さんの遺体を確認した彼は災害対応を続けるため、すぐに役場へ戻らなければならなかった。それは早希さんの結納が予定されていた日でもあった。

「いろいろ聞きたいことがあると思うが、個人的なことは控えて欲しい」

 詰めかける報道陣にそう語り、いつ終わるとも知れない職務を続けたのである。災害から一年が経ち、そのときの心境を寺本町長がこう語ったのを思い出す。

「この社会には、悲しい出来事があって泣いていられる人と、そうでない人がいる。自分はいま、腹を決めてやらないとあかん、とあのとき思った。誰もが悲しみと苦しみに暮れていても、自分はその同じ悲しみや苦しみを押し隠さなければならない。それができないのであれば、そもそも町長になど立候補するな……」

 気持ちを振り絞るように話した彼は、その後の自身の仕事を、亡くなった二人に捧げるつもりで行ってきたと続けた。町の災害対応には様々な意見や批判もあった。だが、私はこの言葉に町長という仕事への切ない程の矜持を感じ、胸が詰まって何も言うことができなくなった。

 産経新聞の記事に引き付けられたのは、残された長男の圭太さんが、そんな父親の背中を確かに見ていたことが描かれていたからだ。

〈地元に戻った圭太さんは、早希さんが眠る棺の前で、静かに涙を流す父の姿を見た。しかし、役場や押しかける報道陣の前では、父は毅然として、決して涙を見せなかった〉

 父親のように強い大人になりたい、と圭太さんは思ったという。その後、米国に留学し、今年からスポーツ用品店で働く彼は、初任給で父親に新しい運動靴を贈ったそうだ。

 近年、豪雨災害の記憶は夏が来る度に上書きされ、忘れ去られてしまうところがある。だが、各々の場所では長い復興の時間が続き、様々な物語も生まれていく。被災地にとっての五年という歳月の重みを、あらためて感じた記事だった。

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