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連載桜庭一樹のシネマ桜吹雪

『ヴァンサンへの手紙』――桜庭一樹のシネマ桜吹雪

美しい言葉

2018/10/14

 子供のころ、場面緘黙(かんもく)症という症状で、しゃべれなかった。しゃべれないから、黙っていた。幸い、伝えたいこともなく、とくに困らなかった。

 さいきん、海外を一人旅した。カタカナ英語と顔芸とパントマイムを使って、ホテルで「カードキーが壊れててドアが開かない!」、駅で「ヴェルサイユ行きに乗りたい!」などと伝えているとき、ふと、子供のころはしゃべれなかったことを思いだして、笑ってしまった。

 言語が異なる場合、目を見ないと伝わらないことも、覚えた。

 さて、この映画は、フランスのろう者コミュニティについての、社会派ドキュメンタリー映画だ。

©2015 Kaléo Films, Le Miroir

 監督の親友ヴァンサンはろう者。十年前に自殺してしまった。その原因を探りながらカメラを回すうち、監督は“手話教育の必要性”という切実な問題に辿り着く。

 わたしは、音が聴こえないと、外出したとき危険が多いのかなとまず考えてしまったけど、それより、言語を奪われることが残酷なのだとわかった。人間は、言語によって自己のアイデンティティーを確立し、他者と深いコミュニケーションを取るからだ。

 ろう者は口話(読唇術と発声練習)か手話を使うのだが、口話は矯正のようなもの。対して手話は、日本語や英語のような独自の言語、文化なのだと、監督は訴える。

 手話は、相手と目を合わせて、表情豊かに、全身を使ってダイナミックに語る。わたしは、演劇的で、音楽的な、美しい言葉だと思った。

 でも、亡くなったヴァンサンを始め、多くのろう者が、正しい手話教育を受ける機会を奪われてきたのだ、と……。

 この映画を観終わって、わたしは、子供時代のことをまた思いだした。しゃべれなくても平気なわけ、なかったよな、と。そのことで、自分の人生にもおおきな抑圧があるような気もするけれど、とらえきれず、ただ、深く長い悲しみが残りました。

INFORMATION

『ヴァンサンへの手紙』
10月13日(土)よりアップリンク渋谷ほか全国順次公開
http://www.uplink.co.jp/vincent/