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元「中国人慰安婦」の“ウソ”と真実。遺族の証言はどこまで信じられるか?

2018/10/16
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12歳で「慰安所」なる場所を紹介された

 唐によると、養母の「元慰安婦」雷桂英は1928年生まれ。彼女は7歳で父を失い、やがてよその家へ童養媳に出された(※童養媳とは、成長後にその家の男性の妻になるのを前提に、女児を他家に売る中国の旧習。貧しい家庭では一種の口減らしとしておこなわれる例が多かった)。

 童養媳は「嫁ぎ先」で虐待を受ける例も多く、桂英も似た境遇だったのだろう。彼女は12歳になった1940年に養家を飛び出し、やがて翌年の上半期に50歳くらいの女性から「慰安所」なる場所を紹介されて、「そこでは食っていける」と説明された。

養母が被った「抗日戦争の被害」とは

 ただしこの時点では、まだ幼いため慰安婦としての雇用ではなかったという。当時、桂英が直接被ったとされる「抗日戦争の被害」は以下のようなものだ。

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「ある日本兵が(当時は子守り係だった)桂英に肉体関係を迫り、彼女が断ったところ、怒って太ももを刺した。桂英は助けてほしいと叫び、他の人がやってきたところ、刺した男は逃げた。慰安所の主の山本が(外出先から)戻ったあと、桂英がケガをしているのを見て病院へ連れて行った。ケガは1ヶ月ほどでよくなった」

 唐によると、当時の山本の慰安所には十数人の20代前半の女性が慰安婦として働いていた。1943年、慰安婦の数が足りず、15歳になった桂英もそちらの仕事をさせられた。「生前、桂英さんは日本人をどう言っていましたか?」とも聞いてみる。

「日本兵が人を殺すところを直接見たと言っていた。ただ、日本兵には民家に押し入った後で、家のなかに仏像や十字架があるのを見て家人を殺さずに引き上げた人もいた、と言っていた」

 標準中国語との通訳を介しているうえ、唐の話自体があまり論理的な感じではない。当方の質問の意図をしっかりくんで答えてくれているのか、ちょっと不安も覚える。しかも、この話は彼の養母が死の前年に語った内容の伝聞だ。それでも根気強く聞くよりほかはない。

カミングアウトしたのは死去の前、2006年だった

 桂英は1年半ほど慰安所で働いたが、1945年8月に「日本が敗戦したので、(地元の)湯山鎮に帰った」という。彼女は子どもが産めない身体になっており、戦後に養子を取った。

 その養子が唐である。桂英は死去の前年、唐に過去の体験を話し、周囲の勧めで南京市内にある侵華日軍南京大屠殺遭難同胞紀念館(南京大虐殺記念館)に自分の経歴を伝えた。

雷桂英の逝去を伝える2007年4月26日付『東方網』の報道

 結果、国営テレビ局のCCTVをはじめメディアが数社取材に来た。カナダにある中国人の歴史問題追及団体からは、カナダに来て証言してほしいという申し入れも来た。桂英はこれらに応えようとしていたが、カミングアウト翌年の2007年4月に亡くなった。唐によれば、一連の証言で金銭的な利益は得ていなかったという。

「平和のために歴史を鑑とし、未来に向かうことが重要です――」

 やがて、証言することがなくなった唐に、通訳を行っていた共産党員がそうした言葉を盛んに喋らせようとした。室内はなぜかストーブが焚かれておらず、ひどく寒かった。

「私たちの生活は向上しています。党と国家に感謝しています――」

 唐はそんな部屋で、何の表情もない目をしたまま、通訳の共産党員に促されるままに堅苦しいスローガンをボソボソとつぶやき続けていた。