昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

ライオンズの背番号7、松井稼頭央は確かにそこにいた

文春野球コラム ペナントレース2018

2018/10/31

【えのきどいちろうからの推薦文】
 日本シリーズ第4戦の代打に斉藤一美さんを指名します。現在、文化放送『ニュースワイドSAKIDORI』(月〜金/15時半〜)のキャスターとして大活躍の一美さんは、97年〜16年の長きにわたり『文化放送ライオンズナイター!』の実況を担当する名物アナでした。語り草になってるのは98年、ロッテ18連敗の際のジョニー黒木被弾の号泣実況ですね。ガチの西武ファンのくせに他チームの悲劇に胸を揺さぶられてしまうんだ。本物の「野球バカ」です。僕はつき合って20年、同じ時代のパの空気を吸ってきた、かけがえのない友だと思っている。文春野球の「日ハムチーム」に一美さんを起用するのは(ファイターズ関係のハッシュタグが使えない等)微妙な問題があるにはあります。でも、それは小さなことです。今は野球の現場から離れてしまった一美さんを「文春野球日本シリーズ」の現場に召還したのは、僕から西武ファンへのプレゼントです。パ・リーグ制覇を成し遂げながら日本シリーズ出場を逃した、その悔しさに僕も胸を揺さぶられました。あと、それからね、北海道のハムファンにはこんなパの仲間がいると知ってもらいたいんです。斉藤一美アナはチームの本拠地を必ず「諦めることを知らない場所・西武ドーム」と二つ名でアナウンスした。熱いでしょ、こういうのすごくいいと思うんです。

◇ ◇ ◇

 諦めることを知らない場所・西武ド……違う。今はもうメットライフドームだ。名前が変わってから一度も実況していないせいか、どうしてもピンとこないなぁ。マイクの前で『奇跡の実現は下位チームの特権です!』『頼む、勝ってくれ。お願いだから、勝ってくれ!』なぁんて全力で口角泡を飛ばしていたのはつい2年前だ。もはや待ったなしの切羽詰まった感情を電波に載せ続けた自分が、今はとても恥ずかしい。僕が文化放送の球場ブースに座らなくなった途端に勝利を重ね始めたんだ。ほんのちょっぴり、腹が立つなぁ!

 クライマックスシリーズ第4戦の試合前、レフトポール際の内野席に座りながらこんな風に様々な想いを巡らせてしまい、少し笑ってしまった。ライバル5球団から“本拠地でファイナルステージを戦うことは決して当たり前ではないんだぞ!”と骨の髄まで叩き込まれて早や10年。ようやくそこへ辿り着けた頃に、僕は報道番組を任されていた。

 時は、過ぎたのだ。いつの間にかライオンズは強いチームになった。

22年前の日米野球で一目惚れした“リトル・マツイ”

 気がつくとシートノックが始まった。左翼手の位置で『7』の選手がこちらに背を向けて立っていたが、軽やかな足さばきと捕球後のスローイングを見るまでは、彼が誰だか分からなかった。当たり前だ。ライオンズの『7』が外野を守る姿を後ろから眺めることは生まれて初めての経験なのだから。本来このチームの『7』であれば、僕の席からはもっと遠くにいて、小さな背中でなければならない。今さらながら、グラブをはめた彼がショートを守らない現実を突きつけられ、無性に淋しかった。

 皆と同じように、僕だって、松井稼頭央が大好きだ。

 一塁側からも。
 三塁側からも。
 外野席からも。
 そして、放送席からも。

 スタジアムのどこからでも、遠く、小さく見える彼が、大好きだ。

 そもそも、初めて松井稼頭央を生で観たのは1996年11月10日の日米野球・第8戦、東京ドームの2階席。21歳になって間もない彼は、とても遠くにいて、小さく見えた。しかし、メジャーリーグの投手に臆することなく立ち向かい、三塁手の頭を低く超えていく流し打ちの鋭いライナーでヒットをかっ飛ばしたのだ。何なんだ、この打球の速さは! おまけに俊足極まりない! とにかくたまげた。一目惚れだった。

スタジアムのどこからでも、遠く、小さく見えた松井稼頭央 ©文藝春秋

 2018年9月29日、宿敵ソフトバンク戦。僕はメットライフドームにいたが、今思えば、松井稼頭央の本拠地最終打席を堪能することができて本当に幸せだった。彼がネクストバッターズサークルへと出てきた瞬間に胸が高鳴り、登場曲『燃えよドラゴン』の扇情的なメロディーが乳白色の天井へと響き渡ると、何だかもう胸がギュッ!と締めつけられ、こみ上げるものを抑え切れなかった。22年前の日米野球で“リトル・マツイ”に触れた時と観客席の角度や高さがほぼ同じだったから、なおさら一目瞭然だった。

 三振だろうが、ファーストゴロに倒れようが関係ない。あの頃からずっと、松井稼頭央の輝きは失せていなかった。

 しかもこの日は「野性的感覚で振りまくる」と公言してはばからなかった本来の“右打席”(vsミランダ)に加えて「プロ入り後に作った型だけに、ちょっとしたきっかけでフォームが崩れてしまう」ため、気の遠くなるような数のスイングを重ねた“左打席” (vs森唯斗)も披露してくれた。左打ちの松井稼頭央といえば、2002年8月16日の近鉄戦が秀逸だ。0−9からの大逆転勝利を収めた際の決勝打は、実に大きく美しい弧を描いたライトスタンド中段への勝ち越し2ランだった(vs三澤興一)。不覚にも、ライオンズ戦の実況中に初めて涙を流した試合だけに忘れるはずもない。

 CSファイナルステージの全5試合で彼の出番はなかった。僕のような“ちょっとおセンチなオールドファン”におもねる余地など皆無の選手起用こそが、パ・リーグ頂上決戦の証だった。

 『ライオンズ』の松井稼頭央は『7』をつけて確かにそこにいた。本人は物足りなかっただろうが、もうそれだけで十分だ。

今季限りで現役を引退した松井稼頭央 ©文藝春秋