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炎上した「キズナアイ」問題 “表現の自由”を主張する前に考えたいこと

2018/10/29
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落ち着いた議論が成立しにくい理由

 インターネットという新しいメディアは、誰もが平等に、オープンに発信できる自律的な空間である。その意味で、ハーバーマスの考えた市民的公共性の理想にだって決して遠くない。しかしその市民の公は、非常に脆く、バランスを崩しやすい。

 ハーバーマスは、マスコミが発達すると近代の「市民の公」が堕落して、衆愚になってしまうと考えた。でもいま起きているのは、エリートと衆愚というような単純な区分けではなく、価値観が多様化している中で、これまでの「市民」の価値観に当てはまらない人だってたくさん現れているということだ。

 おまけに「市民の公」への参加者のあいだで、共通の理念も共有されていない(正義のぶつかりあいを見よ)ことが3・11以降には明白になってきた。だからますます、着地点のある落ち着いた議論が成立しにくい。

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SNSで行われる議論に必要な意識

 私はその困難さの理由のひとつには、TwitterをはじめとするSNSの構造の難点にあるのではないかと思っているが、現状はこのような構造の中に私たちの公共圏は危うくぶら下がっている。だとすれば、そこで行われる議論はより攻撃的ではない方へ、より抑制的な方向へと意識することが必要なのだと思う。

 具体的に言えば、「表現の自由」のような制限をかけやすいネガティブな方向については、より抑制的に自由を侵害しないようにすること。いっぽうで、マイノリティの包摂のようなポジティブな方向については、選別せず積極的にみんなを包摂していくこと。

 いまのネットの議論では、なぜか表現の自由は制限の方向へと進みやすく、包摂は選別されやすくなっている。これは明らかに逆ではないだろうか。

©iStock

 選択・排除と過剰な制限へは、なるべく踏み込まないことだ。そのうえで、何を選択するのかということは、日本社会という大きな枠ではなくて、より小さな文化圏の中で考えられていけばいいと思う。

 ある文化が育って社会全体に影響を及ぼすようになれば、社会全体での「何が選ばれるか」は自然と、みんなが気づかないうちに変わっていく。萌え系やアニメ画などがかつてはオタクカルチャーの中だけで消費されていたのが、最近は老若男女に愛されるようになってきているのは、そういう流れの象徴だと思う。「市民の公」という大きな空間での選択・排除や制限ではなく、小さなところからスタートする文化の力によって、流れは作られていくのだ。

 自主的な規制ではなく、そういう文化への期待こそが、これからの「市民の公」ではないかと思うのである。

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