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ベテラン俳優・橋爪功77歳が語る「本当に撮影所がなくなったらおしまいだ」

橋爪功 時代劇「闇の歯車」の世界

 1961年、文学座付属演劇研究所の第一期生として合格し、以来、50年以上のキャリアを歩んできた、俳優・橋爪功。その「同級生」には寺田農、岸田森、さらに悠木千帆(後の樹木希林)ら錚々たる顔ぶれがいた。そんなベテラン俳優が新たに挑んだ本格サスペンス時代劇。藤沢周平作品の魅力を最大限に引き出した現場とは――。

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初めての撮影所はなんて怖いところなんだろう、と。

橋爪 初めて「撮影所」に足を踏み入れたのは、高峰秀子さん主演の『放浪記』(1962年/東宝)だったと思います。まだ20歳かそこらの頃で、あまり記憶が確かではないんですが、文学座の同級生6、7人と一緒に学生役で使ってもらったのが、最初の映画での仕事でしょうか。牛鍋屋のセットで撮影して戻る途中、雨が急に降りだしてきたので、衣裳の羽織を脱いで頭に被って支度部屋に戻ったら、「お前らみんなそこに座れ!」と、いきなり正座をさせられて、「それ(羽織)を傘と思うてんのかー」と衣裳さんに怒鳴られました。撮影所はなんて怖いところなんだろう、とみんなで顔を見合わせましたよね(笑)。

バイプレイヤーの人を追いかけていた子供時代

 僕の子供の頃は映画がいちばんの娯楽で、それこそ東映では1週間に1本映画が作られていた時代です。近所には映画館が4軒あって、レイトショーもやっていたし、3本立てで上映されていましたから、多い時には年間で2、300本も映画を観ていました。子供時代は役者になるなんてまったく思っていなかったんですが、主演の女優さんや男優さんよりも、バイプレイヤーの人が面白くてね。あの頃は助演陣が綺羅星(きらぼし)のごとくいた。その中の何人かを追いかけたりもして、日記のように感想を手帳につけていましたね。

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 役者としてスタートした当時、日本映画の最盛期は過ぎていましたが、日活、松竹大船といった東京の撮影所の機能も、まだまだしっかりしていました。玄関から入って向こうの方にあるスタジオや衣裳部屋に行くのに、まっすぐ突っ切って行くと、途中に大スターさんがいらっしゃったりするのが怖くて、遠回りをしたなんていう思い出もあります。

©文藝春秋

怒声が飛び交っていた京都の撮影所

 まして京都太秦(うずまさ)の東映や松竹の撮影所なんて、四六時中怒声が飛び交っている。関西の怒声って、関東出身の人はちょっとビビりますけれど、それはそれで後をひくものではないんです。あちこちから色んな声が飛び交って、もたもたしていると本当に蹴り飛ばされそうな感じでしたけど、それが撮影所の雰囲気の特徴でした。「御大」や「旦那」と呼ばれるスターさんは別ですけど、昔は役者も映画や作品に奉仕する駒のひとつ。陰で悪口を言うことはあっても、仕事場に入るとみんな謙虚なものでしたよ。

 どんどん引退されていますけど、数多の名物技師さんがいらっしゃった京都の撮影所は、色んな勉強ができるところ。ここで仕事をしないのはもったいないと思うんです。最近の撮影所はちょっと静かすぎて、誰が何をしているのかよく分からないから、現場では「なに待ちやー!」なんて、自分で大声をあげる時もありますけれどね(笑)。