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「な、な、なにこのコラボ……」心地よい自虐作『翔んで埼玉』が翔べなくなった日

サブカルチャーの理想が、スクリーンの外の現実に敗北した

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2019/03/21
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 映画『翔んで埼玉』は多層的なメタフィクションとして作られている。昭和57年(1982年)から58年にかけて『花とゆめ』(白泉社)に掲載された魔夜峰央による未完の漫画作品を原作とし、映画の中では埼玉県に住む家族が結納に向かう車内に流れるローカルラジオから、巷に流布する都市伝説として紹介されるその物語を聴く構成が取られる。それはいわば関東一都六県を使った差別の戯画である。

映画『翔んで埼玉』作中の「埼玉ポーズ」を披露する出演陣 ©時事通信社

「ベルばら」と大河ドラマをミックスしたようなカタルシス

 東京が自らを中心とする価値観に君臨し、千葉や埼玉は分断して統治され、神奈川は『名誉都民』のごとく東京に阿諛追従する。それは差別構造のパロディであると同時に、その構造に立ち向かうレジスタンス映画、差別を告発するプロレタリア文学のパスティーシュにもなっている。

 替え歌が歌詞を入れ替えてもグルーヴを生むように、東京の支配下にありながら反目し相互監視していた千葉と埼玉が薩長連合のごとく過去の遺恨を乗り越えて手を組み、フランス革命のごとく東京に押し寄せるクライマックスには「ベルサイユのばら」と大河ドラマの明治維新をミックスしたようなカタルシスがある。

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 良く出来た映画だった。そしてとても懐かしい匂いがした。こんな風に社会構造をパロディにし、同時にそれに抗う自らも俯瞰しつつ、徹底したおふざけの中に熱いエネルギーを失わない作品が昔はもっとあったような気がする。筒井康隆の小説の最も優れた部分、あるいは野田秀樹や鴻上尚史の演劇のいくつかを思い出したし、関東の地名を駆使したメタフィクションぶりはどこか押井守作品の文体を彷彿とさせたりもした。

 まるでロックンロールの名曲にヒップホップのリリックをのせたような、『翔んで埼玉』に流れるグルーヴに僕は心地よく揺られた。せっかくだからと自分のブログに映画で描かれる神奈川県民の名誉都民しぐさを自虐的に書いてそこそこウケたりもした。安心していたんだ。あの騒ぎが起きるまではね。