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橋下徹が明かす故・堺屋太一秘話「2025年大阪万博は寿司屋の2階で生まれた」

「果てしない計画」を周囲は本気にはしなかった

 2月8日、元経済企画庁長官で作家の堺屋太一さんが83歳でこの世を去った。2月17日の告別式で弔辞を読んだ一人が、元大阪市長の橋下徹氏である。

「先生、これはいけませんよ、本当に……」

 遺影にこう語りかけた橋下氏は、絶句し、涙を流した。堺屋さんは橋下氏にとって“政治の師”とも呼べる存在だった。そんな橋下氏が、「文藝春秋」に堺屋さんとの秘話を明かした。

橋下徹氏 ©文藝春秋

 二人が出会ったのは2007年11月。橋下氏が38歳のときだった。弁護士事務所に堺屋さん本人から「会いたい」と電話があったという。

「その頃の僕は、“茶髪の風雲児”がキャッチフレーズ。茶髪、サングラス、Tシャツ、ジーパンが基本スタイルでした」

橋下氏を応援しつづけた堺屋太一氏 ©文藝春秋

 事前に用件を知らされていなかったが、堺屋さんの口から出た言葉は、「あなたの人生の一部を大阪に使ってくれないかな」だった。つまりは、「2008年1月に予定されている大阪府知事選に立候補してくれ」との依頼である。そして、こう続けたという。

「大阪と東京との差は目も当てられないくらい酷いものとなっている。もう一度輝ける大阪にしたい。そのためには強烈な旗振り役が必要なんだ。橋下さん、その旗を振ってくれ」

 堺屋さんの熱い思いに胸を打たれた橋下氏は府知事選への出馬を決意。見事、当選を果たす。それ以降、政治家・橋下徹は、一気にスターダムを駆け上がっていく。大阪維新の会の結成、大阪市長への転身、国政政党の結成、そして大阪都構想――堺屋さんは、どんなときもずっと橋下氏を応援し続けた。

 ある日、東京でオリンピックの招致活動が盛り上がっていた頃のこと。当時、大阪市長だった橋下氏は、松井一郎大阪府知事と堺屋さんとの3人で、大阪の北浜にある古民家風の寿司屋の2階で食事をすることになった。

1970年の大阪万博 ©文藝春秋

「酒をかっくらって大阪の将来を熱く語り合い、話題が1970年の大阪万博にも及んだとき、ふと、堺屋さんがこう口火を切ったのです。『もう一度、大阪で万博をやろう』と」

 思いがけない堺屋さんの“発案”に、松井知事はすっかりその気になったという。だが、寿司屋の2階で生まれた、この「果てしない計画」を周囲は本気にはしなかった。

 堺屋さんは諦めなかった。自ら方々に働きかけ、大阪府・大阪市が一体となって奔走した結果、見事、昨年11月に「2025年大阪万博」の開催が決定した。

「堺屋さんのパッション、情熱の賜物です」

 橋下氏は、天国の堺屋さんにこうメッセージをおくっている。

「堺屋先生、少しお休みになって、大阪万博のときにはちょっと下まで降りてきてくださいよ! そして一緒に万博を楽しみましょう!」

文藝春秋4月号

 橋下氏が堺屋さんとの思い出を綴った「さらば我が師、堺屋太一」の全文は、「文藝春秋」4月号に掲載されている。

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