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2019/04/28

 その年の末、新宿の戸山公園の近くでドラマ『私は女引越し屋』のロケがあった。市原さんが高田馬場駅から早稲田方向に歩くシーンの隠し撮りが終わって、ロケは解散した。

 もうすぐわたしの47歳の誕生日だった。帰りがけに思い切って、「何か言葉を入れていただけませんか?」とテープレコーダーを差し出すと、「いいわよ。しょぼくれたときに聞けるようにね」と笑って、少し離れたところで録音してくれた。

 家に帰ってテープを聴くと、市原さんの明るく透き通った声で「40代よりも50代はずっと充実しますよ。年を取ることに希望を持ってね」と吹き込まれていた。テープは今も大切にしている。

 このときから晩年まで、市原さんとの縁は続いた。2012年からは『やまんば 女優市原悦子43人と語る』を頭に3冊の本づくりが始まり、そのたびにわたしは呼ばれた。

「地獄の門番をしております」

 2016年11月1日、市原さんが所属するワンダー・プロダクションの熊野勝弘社長から「市原さんの体調不良のため、明日のインタヴューは中止になりました」という電話があった。インタヴューは翌年、春秋社から出版される市原さんの自伝的エッセイ集のためのもので、11月2日は最終回の予定だった。

 それから間もなく済生会中央病院に入院したという知らせが入った。市原さんの病名は「自己免疫性脊髄炎の疑い」。この病気は、免疫系が自分の体を異物と誤解して、自分の組織を攻撃し損傷するという難病である。市原さんの場合は、脊髄に炎症が起き、左手足のしびれや麻痺を引き起こしていた。

 一度は自宅に戻れるほど回復していた脊髄炎が、年末に再度悪化した。年が明けて、2017年の元旦に市原さんの妹さんから「姉の看病チームのお当番に加わってもらえませんか」というメールが届いた。「お当番」はすぐ下の妹さんと末の妹さん、3年前に亡くなった夫・塩見哲(さとし)さんの姪の久保久美さん、それから付き人の遠藤綾子さんの4人だった。

 脊髄炎の再発以来、ガクンと気持ちが落ち込むようになり、それからというもの、「あの気の強い姉が、帰らないでそばにいてと言うようになったのよ」と妹さんは電話で話した。病室は個室で完全看護だったが、気が弱っている市原さんをひとりにするのは忍びない。しかし、4人ですべてを分担するのは無理がある。そこで「必要なら、いつでも声を掛けてください」と手を挙げていたわたしに声がかかったのだ。週1回のペースで朝10時半から夜7時まで、昼食と夕食を一緒にとってほしいと言う。わたしは二つ返事でOKした。