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宇野昌磨が原石だった頃――小学6年生で語っていた「僕の一番いいところ」

「アクセルが跳べない時は、すごく辛い。昨日は更衣室で泣いてました」ー高校1年

2019/05/02
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 銀メダルに輝いた平昌五輪から1年、宇野昌磨は今年2月の四大陸選手権で、当時のフリー世界最高得点を出してシニアの主要国際大会初優勝を果たした。だが3月の世界選手権では4位。最終戦となった国別対抗戦でも会心の出来とはいかなかった。

 順風満帆に歩んできた宇野はスランプに陥ったのか。いや、そもそも彼のスケート人生は平坦なものではなかったと語るのは、スポーツジャーナリストの青嶋ひろの氏だ。小学6年以来、宇野を毎年取材し、『宇野昌磨の軌跡』(講談社)を上梓したばかりの青嶋氏が、彼の成長の証ともいえる言葉の数々を紹介する。

11歳。全日本ジュニアメダリストとして出場した09年12月の「メダリスト・オン・アイス」 ©坂本清

■小学6年生(2009~10)

 名古屋では「小さなアイドル」として少しずつ知られていた宇野昌磨が、最初に全国区で大きなインプレッションを残したのは2009年だった。ジュニアの下の「ノービス」で全日本3連勝だった彼は、特別枠で全日本ジュニア選手権に最年少出場し、いきなり3位に入ってしまったのだ。

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 優勝は中学3年の羽生結弦、2位は高校3年の中村健人。表彰式で身長169㎝と174㎝のお兄さんふたりの横でニコニコする小学6年の昌磨は、まだ133㎝。大学1年生までが出場する全日本ジュニアで、小学生がメダリストとなるのは史上初めてだった。

 このころ筆者は、日本フィギュアのトップ選手十数名に毎年連続してインタビューする仕事をしていた。小学生と長時間のインタビューが成立するだろうか――そんな心配をしながら名古屋に飛んだのが、10年に及ぶ取材の始まりだった。

「スケートを始めたのは5歳くらいかな? 何回目かにリンクに来た時、浅田真央ちゃんが練習に来ていて、一緒に遊んでくれたんです。

フィギュアスケートジャパンオープン2015で写真をとる宇野昌磨、浅田真央、村上大介、宮原知子ら ©文藝春秋

 大須のリンク(名古屋市中区大須の名古屋スポーツセンター)のスクールは、スピードスケートかホッケーか、フィギュアスケート。そのどれかを選んで入るんですけど、真央ちゃんが『昌磨くんはフィギュアに来なよ!』って言ってくれたんです。僕は男だからホッケーかな、と思っていたけれど、真央ちゃんと同じのがやりたくて、フィギュアにした。今は、フィギュアを選んでよかったな、って思ってます。ホッケーやスピードスケートも、やればきっと、絶対におもしろいと思う。でもたぶん、フィギュアスケートみたいにはできなかっただろうな」

 初対面の昌磨が教えてくれたのが、5歳のときの浅田真央との出会いだ。当時の浅田は12歳。ノービスで全日本4年連続優勝を果たし、特別出場の全日本ジュニアで4位になったころだ。