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連載松尾諭「拾われた男」

松尾諭「拾われた男」 #24「ついに地獄のキスシーンがはじまる」

2019/05/27

genre : エンタメ, 芸能

【前回のあらすじ】

 とある映画の撮影現場で出会った憧れの映画監督と意気投合し、彼の作品への出演が決まり、嬉々として台本を読むと役者人生で初のキスシーンがある事に激しく動揺し、キスの事ばかり考えて現場に行くと、それまで温厚だった監督が烈火の如く怒り出した。そこからキスに至るまでのカットを何度も何度も、罵詈雑言を浴びながらに繰り返し、精根が尽き果てた事すら忘れて、ふいに心と身体がふわりと軽くなったように感じたテイク23。

松尾諭さん出演情報 BSテレ東『やじ×きた 元祖・東海道中膝栗毛』 毎週(土)21時~放送 ©BSテレ東

◆ ◆ ◆

「カット!OK!」

 スタートからカットまでの記憶はなく、監督の張りのある「OK」を聞いてその場にへたり込みそうになった。だが撮影が終わったわけではない。現場はすぐに次のカットの準備に動き出した。マキコの唇を奪うカットである。

 監督からは、カラオケを歌いながらマキコにちょっかいを出し、歌い終わり、席に戻ると見せかけて、不意に振り向いて勢いよく彼女の唇を奪うように指示された。動きの確認をしてテストへと移る。ピンク映画で多くの唇を奪った経験のある大先輩からは事前に、テストではキスはしてもしなくてもいいと聞いていたので、キスはしなかった。テストは監督の怒声を聞く事なく一度で終わり、監督は熱を込めて声を飛ばした。

「よし!次、本テス!!」

 本テスと言うのは、読んで字のごとく、本番のようなテストといった意味なのだが、そこで思考がつまづいた。テストではキスはしないが、本テスではどうなのだろうかと。本番のようにするのなら当然するべきなのだろうが、本番のようでもテストである以上、やはりキスはしないのではないのだろうか、そうこう悩むうちにスタートの声がかかり、逡巡しながらもそれまで通りカラオケを歌い、曲が終わって席へ戻ると見せかけて勢いよく振り返ってマキコの唇に顔を寄せ、テストよりも間近の距離で止めた。結局のところしなかったと言うよりできなかった。

「バカヤロー!!!」

 再び地獄の扉が開いた。一緒に楽屋で映画の話をした気の良いおじさんは最早にどこかへ行き、すっかり鬼と化した監督は言い訳をする根性なしの役者に「本テスなんだからキスするのが当たり前」などと言いながら阿保だの馬鹿だのと罵倒の言葉を吐きに吐き、怒りの治らないままに「次、本番!」と投げ捨てるように号令をかけた。

 その前のカットですでに汗だくになっているところに、またしても監督の雷に打たれ、さらに、美人女優にキスをするという重圧で、汗腺は馬鹿になっていた。本番前の直しに来たメイクさんが、その止まらない汗に手を焼いていると「そんなやつの直しなんかしなくていいよ!」とまたも監督の怒声が飛んだ。