文春オンライン

連載昭和の35大事件

なぜ行員たちは乾杯するように毒を飲んでしまったのか――生存者が語った"帝銀事件"の悪夢

「平沢は犯人と思えません」

source : 文藝春秋 増刊号 昭和の35大事件

genre : ニュース, 社会, メディア

解説:戦後史の謎の事件、再審のカギは毒物

 戦後史の謎の事件の一つとされる帝銀事件は1948(昭和23)年1月26日、東京都豊島区の帝国銀行椎名町支店(当時)に男が現れ「伝染病の予防薬」と称して2段階で液体を飲ませ、行員と家族計12人を殺害。現金を奪った。手口から「731部隊」など旧日本軍の元謀略部隊員らが疑われたが、占領軍の圧力で捜査方針が変更された。

 1980年、私は所属する通信社社会部で事件の洗い直し取材チームに加わった。「ネタ」は(1)警視庁捜査一課係長が残した「甲斐メモ」、(2)平塚八兵衛刑事の捜査記録、(3)「O真犯人説」――の3つ。平塚は警視庁の名物刑事で、「帝銀」では類似未遂事件で使われた名刺の捜査を担当。平沢貞通元死刑囚の逮捕に結び付けた。捜査記録は和紙を糊でつないだ「巻物」。本人は前年亡くなっており、どうやって入手したのか……。「O」は実在の歯科医師で、一部の帝銀事件マニアが固執し、事件の状況を彼に当てはめて謎解きしていた。

「甲斐メモ」の内容を解読したもの

 筆者は甲斐メモを基に取材。生き残りの行員である竹内正子さんの夫の元読売新聞記者にも話を聞いた。彼は、犯行に使われたのは遅効性の毒物で、旧陸軍第九技術研究所(通称・登戸研究所)が開発した青酸ニトリル(別名アセトン・シアン・ヒドリン)だと主張した。筆者は、同研究所の開発担当者や旧731部隊員らにも取材。元死刑囚の支援団体メンバーが「真犯人」と名指しした元陸軍軍医(故人)の足跡を追って九州の炭鉱地帯にも行ったが、真相には近付けなかった。

ADVERTISEMENT

1948年1月29日東京朝日新聞

 その後も事件との関わりは続いた。個人的には、平沢元死刑囚の冤罪の可能性は強いと思う。だが再審請求は認められず、元死刑囚は1987年に95歳で獄死。養子が請求を引き継いだ。彼とは長い付き合いで、よく深夜に電話をかけてきたが、6年前孤独死。再審請求は別の親族によって現在も第20次が継続中。毒物については異説もあり、その解明が最大のカギだ。

小池新(ジャーナリスト)

◆◆◆

 帝銀椎名町支店11名を毒殺した犯人は果して平沢か。その恐怖の手より免れた竹内正子氏は“否”と叫んでいる。

 初出:文藝春秋臨時増刊『昭和の35大事件』(1955年刊)、原題「帝銀事件の悪夢」

私が平沢にあって「ホッとした」

 平沢に会ったのは、ただ一度だけでした。うす暗い警視庁の調べ室の中で、会ったというより見せられたわけです。昭和23年9月のはじめ、確か平沢が北海道で捕まって10日ほどたった日だったと記憶しています。

 鈴木という警部の方と話をしていて、私が入って行った時、別段どうという感情もない顔で私の方を眺めました。私に声を聞かすために鈴木警部がお天気のことを話しかけ、彼が暑さが非道いというようなことを答えていました。

 私としては、もしかするとその部屋にいる男に、殺されかかったのですし、当時はまだ恐怖が冷めきったというほどでもなかったので、幾分おっかなびっくりといった気持で、その部屋に入って行ったわけですが、こちらをみつめる平沢の顔は、あの時の犯人の顔と何か根本的な違いがある、むしろ親しみすら感じられるお爺さんといった顔だったので、瞬間実はホッとしたといったところだったのです。

 これが私の平沢に対する第一印象です。声は別段気にも止めませんでした。

犯人とされている平沢貞通