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文春野球コラム

“感謝”を忘れず”攻める気持ち”を貫く――中日・梅津晃大が1軍のマウンドで輝く日

文春野球コラム ペナントレース2019

2019/07/30

「今まであまり喜びの余韻に浸ったことがありません」

 梅津晃大は神妙に口を開いた。禍福は糾える縄のごとし。幸不幸は交互にやってくる。突然、平和な日常が奪われることを中学2年生で体験した。2011年3月11日。東日本大震災。梅津は仙台市内にある仙台育英秀光中学校で被災した。

「ちょうど部活が始まる時間でした。部室でユニフォームに着替えていると、激しく揺れたんです。慌ててグランドの中央に移動しました。それから校舎の一番高い所へ避難。電気も消えました。保護者が迎えに来るまでは帰宅させられないということで、ずっと待っていた記憶があります。父が来たのは夜中の2時頃でした」

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 野球ができるようになったのは2か月後。

「当たり前のことが当たり前でなくなる。震災を経験して、感謝の気持ちはより大きくなりました」

 梅津は仙台育英高校から東洋大学へ進学。怪我も重なり、頭角を現すまで時間がかかったが、チームメイトの上茶谷大河(DeNA)や甲斐野央(ソフトバンク)とともにドラフト上位候補に成長した。

 しかし、スカウトへのアピールとなる4年秋の東都リーグの真っただ中、母がくも膜下出血と脳出血で倒れた。1週間後、梅津は国学院大学戦で初勝利。ただ、喜ぶ間もなく、翌日に仙台へ向かった。集中治療室には変わり果てた母の姿があった。

「全身に管が繋がれていて、髪も剃って帽子を被っていました。初勝利のボールを渡しましたが、全く意識はありませんでした」

 梅津はドラフト会議で中日から2位指名を受ける。幼い頃からの夢が叶ったが、母の容体は変わらず、心の底からは喜べなかった。

「元気な姿を見せるのが恩返し」

 梅津は名古屋の地でプロとしての第一歩を踏み出した。しかし、1月の自主トレ中に右肩インピンジメント症候群と診断され、キャンプは別メニュー。3月にようやくブルペンの球数が増え、遠投の距離も伸びた。

「正直、キャンプではもっと投げたいと思いましたが、そこはきっちり管理して頂いたお陰で再発もなく、痛みは完全に取れました」

ドラフト2位ルーキーの梅津晃大

ピッチャーにとって一番大切なことは攻めること

 梅津の理想は大谷翔平だ。「まだ、抜ける球は多いですが、投げ方や雰囲気は似ていますよ」と小笠原孝2軍投手コーチ。首脳陣も素材の良さを評価している。4月29日の阪神戦で2軍デビュー。その後、着実にステップを踏んだが、5月22日のソフトバンク戦でプロの壁にぶち当たった。

「中村晃さんです。どこに何を投げても、左右にいい当たりをされる。たまたまファウルで済みましたが、初めて『この人は抑えられない』と思いました。結局、フォアボール。あの打席は強烈に印象に残っています」

 右腕にはすぐリベンジの機会が与えられた。5月28日。中村晃と再戦。梅津は意を決した。

「絶対、攻める。そう思ってマウンドに上がりました。前回はコースを狙いすぎ。やはりピッチャーにとって一番大切なことは攻めること」

 腕を振ったストレートは唸りを上げた。2球でセカンドゴロ。梅津は大きな収穫を得た。

「気持ちでこんなに結果が違うんだなと。決して変化球が逃げではありません。ただ、相手を攻める気持ちがないと、何を投げてもだめだと思いました」

 6月上旬、ナゴヤ球場のロッカールームで大野奨太と会話をした時、その思いを一層強くした。梅津は投球フォームの画像を見せ、東洋大学の先輩にアドバイスを求めていた。

「どんなピッチャーになりたい?」

 不意を突かれた梅津に大野奨は続けた。

「色々な球種をバランスよく投げて制球で勝負するタイプ。8割が真っ直ぐでバッターを押し切るタイプ。例えば、この2つならどっちだ?」

「後者です」

 次に大野奨は大谷のエピソードを披露した。

「翔平はストレートでホームランを打たれたら、次の対戦ではストレートで空振りを取ろうとする。160キロでもバットに当てられると批判された時は球速を抑えてキレを求めるのではなく、160キロのまま回転数を上げる努力をしていた。あいつの目標に妥協はない」

 梅津の胸は高鳴り、心は決まった。どんな時も相手を攻めて力でねじ伏せると。

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