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猛虎の本懐、そして使命―――阪神は移りゆく時代の「心のふるさと」

文春野球コラム ペナントレース2019

2019/08/20
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 甲子園球場の芝の上を赤とんぼが舞い、空にいわし雲が浮かぶ。夏の高校野球大会も終盤を迎え、秋の気配が漂うようになった。

 毎年のことだ。いや、長年しみついた感覚だろうか。長期ロードを終えた阪神が甲子園に戻る晩夏、寂しさとともに眺める。スタンドでの会話が聞こえる。「今年もあかなんだなあ」「まあ、来年がありまっさ」。

うろこ雲を赤く染めた甲子園の夕焼け ©内田雅也

東京対大阪という宿命の構図

 昔から阪神ファンはどこか負けを楽しんでいる。愛想を尽かさず、期待しては負け、落胆しては期待する。その繰り返しだ。この複雑な心理を作家・藤本義一は『月刊タイガース』創刊号(1978年3月発行)で〈阪神ファンとして見られている特権意識?の疼(うず)きがあるのではないか〉と考察している。

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 ライトスタンドに足繁く通う経済評論家・國定浩一は「阪神ファンは観戦ではなく参戦だ」と言う。ともに戦っているわけだ。

 この気質はどこから来ているのだろう。根源に東京に対する大阪の反発がある。江夏豊が「関ケ原以来の思いがある」と語っていた。〈江戸幕府が開かれて以来、経済は大阪の特権だった。政治は東京でいい。だが、ゼニ儲けは大阪のもんや。そういう意識が大阪人にはあった。ところが、昭和になってからそのプライドに陰りが見え始めた。近年になると、もうズタズタである〉と帝塚山学院大学長だった大谷晃一が『大阪学・阪神タイガース編』(新潮文庫)で解説している。企業の本社機能は東京に移り、大阪には指示が下る。〈何か東京に対抗できるものはないか。あった。阪神タイガースや〉〈鬱憤は十分すぎる。それを阪神がときどき晴らしてくれる〉。

 東京対大阪。宿命の構図はプロ野球誕生の経緯にさかのぼる。「プロ野球生みの親」正力松太郎が巨人を創設したのが1934(昭和9)年。興行として成功させるにはライバルが必要だ。目をつけたのが甲子園球場という日本一のスタジアムを持つ阪神電鉄だった。阪神は誘いに乗り、1935年に球団を発足させた。

 狙い通り、戦前の優勝は巨人と阪神が独占し、プロ野球を支えた。後に「伝統の一戦」と呼ばれる黄金カードとなった。

打倒巨人を果たしての優勝こそ阪神の「本懐」なのだ

 苦難の道を歩むのは戦後だ。1950年2リーグ制以降の優勝は巨人36回に対し、阪神はわずか5回。しかも阪神は巨人と争って優勝した前例がない。2リーグ制優勝の5度のシーズン、巨人は3位以下に沈んでいた。つまり、強い巨人を倒したわけではなかった。逆に巨人と競って負けた例はいくらもある。巨人優勝・阪神2位は2リーグ制で15度。巨人V9当時は「万年2位」と揶揄された。

 阪神ファンだった作詞家・阿久悠が1997年、スポーツニッポン新聞(スポニチ)に連載した小説『球心蔵』(きゅうしんぐら)は忠臣蔵仕立てで、阪神を赤穂浪士になぞらえた。阪神はシーズン最終戦で巨人を破り優勝を果たす。積年の恨みを晴らす。

 阿久の空想を評論家・井上章一は『阪神タイガースの正体』(ちくま文庫)で〈アンチ・ジャイアンツを信条とする阪神ファンの典型的な妄想〉と称した。「親分」鶴岡一人率いる南海(現ソフトバンク)は1959年、杉浦忠の日本シリーズ4連投4連勝で巨人を破り、日本一となった。〈南海は御堂筋のパレードで泉岳寺への凱旋めいた感動を味わった〉〈阪神ファンの忠臣蔵幻想は残存し続ける〉。つまり、打倒巨人を果たしての優勝こそ阪神の「本懐」なのだ。

 阪神に寄せる思いは関西人に限らず、日本人に共通している。『球心蔵』あとがきにある。〈形を変え、解釈を変えながら、毎年暮になると「忠臣蔵」が登場してくるのはなぜだろうということと、負けても負けても阪神タイガースのファンが減らないのはどうしてだろうということは、ぼくにとって、「日本人の謎」でした〉。この問いへの答えとして阪神優勝への思いがあった。

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