文春オンライン

連載昭和の35大事件

「太平洋戦争を止められた」エリート軍人・永田鉄山は本当に歴史を変えることができたのか

現代にも通ずる「日本型官僚エリート」の限界値

2019/08/11
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解説:日本のエリート官僚、その本質は変わっていない

 1935年8月12日午前9時40分ごろ、東京・市谷の陸軍省軍務局長室で、局長の永田鉄山少将が執務中、突然軍服姿の1人の軍人が侵入。逃げようとした局長に軍刀で切りつけた上、背中を刺し通した。

「省内で兇刃に倒る(危篤)」(朝日)、「左肩に深傷・遂に絶望」(東京日日)など、13日夕刊(実際は12日夕刊)は各紙1面トップで報じた。「危篤状態」のまま、自宅に帰宅しているのは奇妙だが、実際は即死だったのだろう。永田の経歴も触れられており、東日は「陸軍稀有の逸材」、朝日は「第十六期中の出世頭」との評価。同日午後4時、正式に死亡が確認された。

1935年8月12日東京朝日新聞夕刊は「兇刃に倒る」と報じた

 13日朝刊で朝日は「永田局長逝去(中将に昇任)」、東日は「永田局長遂に逝く」と報道。同じ紙面では、自分の娘を芸妓屋に身売りした農民が遊郭で遊び続けたという話題を、「凶作地の娘は泣く」などの見出しで載せた。13日午後1時40分、陸軍省は、加害者は「陸軍歩兵中佐相沢三郎」と発表。「兇行の動機は未だ審らかならざるも永田中将に関する誤れる巷説を妄信したる結果なるが如し」とした。東日号外は「相沢中佐は剣道の達人」、朝日夕刊は「熱狂的な性質」と伝えた。

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永田斬殺を決意させた「真崎甚三郎教育総監の更迭」

 昭和の日本陸軍は、柳条湖事件以後、国家改造と満蒙(「満洲」と内モンゴル)問題解決を求める革新将校らが台頭。そのうち、天皇親政などを求める精神主義的傾向の強い「皇道派」と、軍の内部統制強化と総力戦のための国家総動員体制確立を目指す「統制派」に分裂した。統制派は、将校の養成機関である陸軍士官学校(陸士)と陸軍大学校(陸大)を卒業したエリート軍人が大半。その中心が永田で、1934年3月に軍務局長に就任すると、統制派の林銑十郎陸相(のち首相)の下、皇道派の将官を軍の中央から外す人事を進めたという。

永田鉄山 ©文藝春秋

 そのピークが、皇道派の青年将校の支持を集めていた真崎甚三郎教育総監の更迭。のちに「二・二六事件」を引き起こす青年将校らは強く反発して、「教育総監更迭は統帥権干犯」「元凶は永田局長」とする怪文書を作って配布した。陸軍省発表の「巷説」はその怪文書を指しており、皇道派の相沢中佐はそれに激高して永田局長殺害を決意したとされる。

「軍務局長(少将)が白昼、その執務室で同じ軍人(中佐)によって殺害されるという事件に、当時の派閥抗争の陰惨さと異常さがうかがわれよう」と戸部良一「逆説の軍隊」は指摘する。「下克上」が行き着くところまで行ったということか。