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特集74年、あの戦争を語り継ぐ

『いだてん』の水泳選手も 太平洋戦争に散った五輪アスリート「4つの悲劇」

『いだてん』の水泳選手も 太平洋戦争に散った五輪アスリート「4つの悲劇」

2020年東京五輪との運命的なめぐりあわせ

2019/08/13

「戦没オリンピアン」という言葉がある。これは、オリンピックに出場したあと、戦争やテロなどの暴力によって命を落としたアスリートたちを指す(※1)。戦前に日本代表としてオリンピックに出場した選手のなかにも、日中戦争、太平洋戦争に出征し、戦死・戦病死したり、あるいは国内の空襲などで亡くなった人が少なくない。広島市立大学の曾根幹子名誉教授らの調査では、日本人の戦没オリンピアンは2016年までに37人が確認されている(※2)。そのなかには、広島で被爆し、戦後18年を経た1963年にその後遺症(白血病)で死去した選手も含まれる。この選手は高田静雄といい、1936年のベルリン大会の砲丸投げに出場していた。

「日本にクロールを広めた男」内田正練

 37人のなかには、1920年のアントワープ大会で日本から初めて競泳に出場した一人、内田正練(まさよし)も含まれる。内田は現在放送中の大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』でも、主人公・田畑政治の地元の先輩として登場している。内田も田畑も1898年生まれで(ただし内田は早生まれで学年は1つ上)、浜名湾でともに水泳を習得した仲だった。

内田正練が出場した1920年アントワープ五輪、男子自由形100mの競技の様子。当時は野外の会場で行われていた ©getty

 内田はアントワープで100メートルおよび400メートルの自由形に出場したものの、いずれも予選敗退している。内田は得意とする日本泳法の片抜き手で泳いだが、欧米の選手たちのクロール泳法にはまるで歯が立たなかった。彼は帰国すると、競技から退き、日本でのクロールの普及活動に尽力することになる。

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 北海道帝国大学(現・北海道大学)卒業後は、銀行や養魚場などに勤務し、1932年には南米アルゼンチンに渡って、大農園経営で成功を収める。母の死をきっかけに帰国するが、1941年に製糖会社の技師として東南アジアに赴任。その年の暮れに太平洋戦争が勃発すると、ビルマ(現ミャンマー)の独立運動家を支援していた南機関の鈴木敬司陸軍大佐と呼応してビルマ義勇軍の将軍となった。1942年にビルマからイギリスを追放した日本軍は軍政を敷き、ビルマ独立を主張していた鈴木大佐には帰国命令が出て南機関は解散、内田も陸軍の命令で帰国する(※3)。