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「がんになって初めて学んだのは“優しくする“こと」――大林宣彦が語る「理想の死のかたち」

映画監督・大林宣彦が語る「大往生」#2

 孤独死、ポックリ、七転八倒!? 理想の“死のかたち”を14名に語ってもらった『私の大往生』(文春新書)が発売中。その中から映画監督・大林宣彦さんのインタビューを特別公開。(全2本中2本目)

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大林宣彦 おおばやし・のぶひこ 1938年広島県生まれ。1977年、『HOUSE/ハウス』で劇場映画デビュー。故郷・尾道を舞台にした作品などで数多くの映画賞を受賞。2016年、肺がんで余命半年を宣告されたが、その後も映画を作り続けている。

誰も殺してくれない。大人に騙された

――大林さんは、1938年の1月9日生まれ。父も母も代々医者の家系だった。医者の父親が出征した後は、広島県尾道市の母親の実家で過ごし、7歳の時に終戦を迎えた。

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大林 大家族で暮らす時代で、尾道の屋敷は広く、夜な夜な町の長が集まりました。警察署長、税務署長、郵便局長……ヤクザの親分さんも集まって、芸者さんも呼んだ。男衆はみんなフンドシ1本になって酒を飲み、意気軒昂に天下国家を論じる。

 当時は子供部屋などはなく、10人ばかりの子供はその辺で遊んでいました。しかし、子供は大人の話は注意して聞いている。

 大人たちは、次第に背中を丸め、ヒソヒソ話をするようになった。大人たちは、戦争に負けていることを子供には話してくれません。でも、子供には分かっているんです。

 軍国少年だった僕も、負ければ死ぬぞって覚悟していました。憲兵のおじさんは、「負けた国は、皆、自決する。子供は、大人が殺してやるから安心しろ」と言っていました。

 しかし敗戦になった途端、大人たちがボロボロの服を着て、ヤミ米担いで「平和じゃ、平和じゃ」と言ってスキップしている。誰も死なないし、誰も殺してくれない。ふいに大人に騙されたという絶望感に襲われました。

©山元茂樹/文藝春秋

「何のために生き延びたんだ?」僕を抱きしめて泣いた談志

 寺山修司が昭和10年生まれで、僕の3歳上。ミッキー・カーチスが昭和13年生まれで、同い年。阿久悠さん(昭和12年生まれ)も、和田誠さん(昭和11年生まれ)も、僕らは、敗戦時の記憶が人生に強く影響しているんです。

 落語家の立川談志(昭和11年生まれ)とは、晩年に仲良くなりました。

「大林さん、鬼畜米英をやっつけることが正義だと信じ、お国のために死んでやろうと思っていたのに、負けた途端に、アメリカの正義が正しいと言われ、何を信じられる? 正義なんて勝った国の都合じゃないか」

 談志は、よくそう言っていました。

 談志が古典落語を選んだのは、そこに、敗戦で失った日本の良さが生きていたからです。その一つが夫婦愛。だから彼は「芝浜」の名人になった。

 談志はがんになった後、「オレなりに努力して、ここまで来た。がんごときに殺されたくねえ。何のために生き延びたんだ? 大林さんなら分かるだろ?」と言って、僕を抱きしめながら泣きました。

立川談志 ©文藝春秋