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63年ぶりの国宝! 松江城天守の“特殊構造”を編み出した名将の築城術とは?

天守の“秘策”と城下の銘酒、出雲そばのルーツに迫る

2019/09/14
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 松江城(島根県松江市)を訪れるのは、6度目、3年ぶりのこと。以前『城の科学~個性豊かな天守の「超」技術』という著書を出版した際、国宝指定されて間もない松江城天守を取材させてもらったのです。松江城天守は平成27年(2015)、5つめの国宝天守に指定されました。国宝天守の誕生は実に63年ぶりでした。

松江城の天守 ©志水隆/文藝春秋

 実は、日本の城は謎だらけで、犬山城(愛知県犬山市)や彦根城(滋賀県彦根市)の天守も、国宝だからといってすべてが解明されているわけではありません。松江城天守の国宝指定は、調査・研究の賜物。放射性炭素年代測定(ウィグルマッチング法)による部材の年代測定調査など最新の調査方法も導入されており、天守解明の新たな1ページがめくられたといっていいでしょう。

苦肉の策で編み出された天守の構法

 国宝化の決め手のひとつは、独自の建築技法が明らかになったことです。建築上の最大の特色は、通し柱の使い方。下の図にあるように、地階と1階、1と2階、2と3階、3と4階、4と5階、というように、2階分の通し柱を交互に配することで天守を一体化しています。姫路城(兵庫県姫路市)の天守は地階から6階の床までを貫通する2本の通し柱(心柱)が支えているのに対し、松江城天守は2階ずつを通し柱で支えて均一に荷重をかけているのです。

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通し柱位置説明図(左)と、通し柱説明図(右)。萩原さちこ『城の科学~個性豊かな天守の「超」技術』(講談社ブルーバックス)より転載(平面図と断面図は『重要文化財松江城天守修理工事報告書』より引用)

 2階分の通し柱をずらすように配置することで、天守の荷重が下の階に直接かからないしくみです。逆Tの字のように、荷重を外方向へ分散させながら、下方向に伝えます。おそらく、姫路城天守ほどの長大な通し柱が調達できず、代替策としてこの方法が編み出されたのでしょう。

 松江城天守の構法は天守の発展にも大きく影響し、その後の丸亀城(香川県丸亀市)や宇和島城(愛媛県宇和島市)の天守などでも採用され、やがて大坂城(大阪府大阪市)や名古屋城(愛知県名古屋市)の天守にも用いられるようになったと推察されています。

2階分を通していることがわかる通し柱

どのように完成年を明らかにしたのか?

 完成年が証明されたことも、国宝化の大きな決め手となりました。天守の完成年代の特定は、実はとても難しく、一筋縄ではいきません。古材が転用されているケースがあるため材木の年代や柱の加工技術だけでは断定できないからです。また、犬山城天守のように、下層部と上層部で建造時期が異なることも少なくありません。

現存天守では松江城だけにみられる「包板」。柱の周囲を板で包み、鎹(かすがい)で固定して鉄輪で締めたもの。天守内の308本の柱のうち130本に使われている
天守の4階

 松江城の場合、歴史的な価値を証明する決定打となったのは、再発見された2枚の祈祷札でした。赤外線調査により大半が判読でき、うち1枚には「慶長拾六年」「正月吉祥(日)」、つまり慶長16年(1611)正月に大般若経600部を転読した(はしょって読んだ)ことが記されていました。大般若経600部の転読は建物の完成を祝う儀式で行われるもので、祈祷札が用いられるのは天守の完成を祝う儀式。よって、祈祷札は松江城天守が少なくとも慶長16年正月以前に完成していた証となったのです。