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「僕は野球が下手くそだったことがよかった」――“ドラフト最下位”三輪正義の生き方 #2

「僕は野球が下手くそだったことがよかった」――“ドラフト最下位”三輪正義の生き方 #2

2019/10/16

 プロ野球ドラフト会議は10月17日に行われる。上位指名選手にスポットが当たりがちだが、下位指名も興味深い。なかでもその年、最後に名前を呼ばれた“最下位指名選手”は、プロ野球選手に“なれた人”と“なれなかった人”の境界線にいる、特別な存在だ。

 今季で現役引退を決めたヤクルトの三輪正義。彼もそんなひとりである。「できるわけがない」から始まったプロ野球人生を、本人の言葉で辿った。

『ドラフト最下位』(KADOKAWA)から抜粋。

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◆ ◆ ◆

恩師に呼び出されて大説教

 三輪は無職になった。

 これからどうしよう。大学に行って教職を取り、先生にでもなろうか。そんなことを考えていると、またまたタイミングよく面白い話が耳に入ってきた。

 四国に独立リーグが設立される──。

 恩師である山崎監督の下にひさしぶりに掛かってきた教え子からの電話は、衝撃的な内容だった。

「私に内緒で勝手に会社を辞めたと思ったら、ダイエーのテストを受けに行っとったみたいですね。それで最終まで残ったことに味をしめて、四国アイランドリーグのテストを受けて合格した……というところで初めて連絡がきました。『お前、ふざけるな。すぐ来い!』と呼び出して大説教ですよ。しかも独立リーグの待遇を聞いたら、給料は月に数万で共同生活をして、うどん屋でアルバイトをするという。そんな生活で……と思いましたが、もう決まってしまったことなので、こちらとしては送り出すしかありませんでした」

©文藝春秋

 あの時、会社を辞めるタイミングが少しでも遅れていたら、独立リーグにも参加することはなく、その後の三輪の野球人生は大きく変わっていただろう。

 野球との縁が切れそうでなかなか切れない三輪の数奇な運命は、香川オリーブガイナーズに入団したことによって、新たな局面を迎える。

「独立リーグはNPBを目指す人が集まってくる場所ですが、その時の僕はもう一度野球がやれればそれでよかったんです。プロに入りたいなんてカケラも思いませんよ。何度も言いますが、僕の実力からしたら雲の上の世界ですからね。香川の1年目、オリックスと交流戦をしたんですけどT‐岡田とか、めちゃめちゃ体がデカいんですよ。僕なんて168センチですからね。一緒のグラウンドに立っただけで、自信なくしますよ」

ヤクルトとの練習試合で活躍してしまう

 独立リーグ1年目の2005年は打率2割3分3厘とやはり打てなかった三輪だが、24盗塁とリーグ2位の成績を残す。さらに翌年にはリーグ最多犠打を記録するなど、いぶし銀の働きに磨きをかけた。

 ただ野球ができればいい。そんな思いしかなかった三輪のプロに対する意識が変わってきたのは、その年の秋からだった。

 松山坊っちゃんスタジアムで秋季キャンプを張っていた、東京ヤクルトスワローズとの練習試合。その試合で香川は勝利し、三輪は活躍してしまう。

「キャッチャーとして、自分なら三輪みたいなランナーはイヤだな」

 試合後のコメントで、三輪の快足を評価している人がいるということを耳にした。

 その声の主は当時監督を務めていた古田敦也氏。2年前、選手会会長としてストライキを決行し、三輪の入団テストが流れた因縁は、ここで再び交わることになる。

「さらに何度もいいますが、プロ野球は僕にとって雲の上の存在なんですよ。そんな僕がまだピッチャーをやっていた頃の雄平からヒットを打ったんです。驚きましたね。『あれっ、俺、プロ野球選手からもヒットを打てるんだ』って。これまで雲の上の話だったプロ野球が、はじめて自分の手の届く場所に見えてきたというか……。まぁ、まだまだ遠い世界ですけどね。ちょっとだけ先が見えてきたような気がしました」

 その練習試合後、「ヤクルトが育成ドラフトで指名するかもしれない」という言葉がどこからともなく聞こえてきた。

 四国でのシーズン打率は2割5分6厘とやや上げていたが、それでも自分が指名されるはずがない。2006年のドラフト会議。「期待はしない」と言いながらほのかな期待を持ちつつ迎えたその席上で、三輪の名前が呼ばれることはなかった。