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石垣が圧巻! 宇喜多秀家が築いた岡山城が“特別な城”である理由

城下では「隠し寿司」と雄町米の銘酒を堪能!

2019/10/25
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 岡山城が別名・烏城と呼ばれるのは、かつて天守の外壁に張られた下見板に黒漆が塗られ、太陽の陽射しを受けるとまるで烏の羽のように重厚な輝きを放っていたからだとか。黒漆は織田信長が築いた安土城(滋賀県近江八幡市)や豊臣秀吉の大坂城(大阪府大阪市)、秀吉配下の家臣の城だけに採用された特別なもの。高価な上にメンテナンスに手がかかるため、限られた時期にしか使われていません。

 また、金箔瓦が葺かれていたことから金烏城ともいわれますが、金箔瓦も信長と秀吉が城に用いたものです。信長は親族の城のみに、秀吉は重臣の城のみに使用を許可し、ステータスシンボルとして政治的に活用していたとみられています。つまり、黒漆と金箔瓦の使用を許された岡山城は、特別な城といえます。

東側の旭川対岸から望む岡山城天守。

57万石の大大名が築いた「不等辺五角形」の天守

 岡山城を天正18年(1590)から築いたのは、豊臣政権下の宇喜多秀家です。秀吉の寵愛を受けて、異例のスピード大出世を遂げた人物です。「秀」の一字を与えられて猶子となり、前田利家の娘で秀吉の養女・豪姫と結婚。26歳にして五大老に就任し、順風満帆な出世街道を突き進みました。

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 57万石の大大名にふさわしい城として新築されたのが、秀吉の指導のもとにつくられた岡山城でした。父・直家が築いた石山城を取り込み、東隣の丘陵に築城。岡山県の県名の由来は、城が築かれた丘陵の名が岡山だったからといわれます。

本段東側から見上げる岡山城天守。

 天守は、残念ながら太平洋戦争の空襲で焼失。現在の天守は昭和41年(1966)に復元されたものですが、古写真などをもとに、窓の位置の違いなどを除いて外観はほぼ再現されています。珍しい不等辺五角形をした独特のフォルムが、とにかくかっこいい。本段東側から見上げると、その造形美が堪能できます。

天守の礎石。天守再建の際、配置はほぼ元のまま現在の場所に移築された。石材が赤いのは、空襲で焼けたため。

宇喜多・小早川・池田……ナンバーワンの石垣は?

 城内の最大の見どころは、秀家が築いた石垣です。秀家は慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後は流罪となるため、在城期間は10年ほど。全国の有名な城の築城開始年を見てみると、姫路城は慶長6年(1601)から、松江城は慶長12年(1607)から、名古屋城は慶長15年(1610)からと関ヶ原合戦後が多く、実は、関ヶ原合戦前に積まれた石垣の残存例は全国的にも貴重です。

宇喜多秀家が築いた、本丸本段南東の石垣。算木積みの精度が低い。

 とくに秀家が築いた岡山城本丸本段南東の高さ15.6メートルにも及ぶ野面積みの石垣は、関ヶ原合戦前に積まれた石垣としては全国トップクラスの高さ。現在は地中に3メートルほど埋まっていますから、実際にはさらに高かったことになります。秀家の技術力は相当なものだったようです。そのほか、秀家が築いた石垣は、本丸中の段に2か所、地下展示されています。