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BEAMS×週刊文春 FASHION is SCANDAL!!

ビームス社長が阿川佐和子に明かす「43年前、原宿の6.5坪の個人店が全国160店舗以上になるまで」

ビームス社長が阿川佐和子に明かす「43年前、原宿の6.5坪の個人店が全国160店舗以上になるまで」

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10月29日の発売とともに、業界内外を騒がしている異色のコラボ増刊「ビームス×週刊文春」。そのなかから『週刊文春』の名物コーナー「阿川佐和子のこの人に会いたい」BEAMS設楽洋社長編をご紹介します。

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原宿の片隅から始まったビームスを父から引き継ぎ、様々な業態に広げた設楽さん。43年を迎えた現在でも、気になる存在でいるために必要な「コクとキレ」についてうかがいました。

BEAMS代表取締役社長設楽洋さん(左)と阿川佐和子さん

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もともと新光株式会社という段ボールを作る会社だった

阿川 設楽さんとはこれまで2回ゴルフをご一緒したことがありますが、ゆっくりお話しするのは初めてで。経歴を拝見したら、慶應義塾大学の1個上の先輩だったのね。

設楽 そうそう。僕のほうは学生時代から阿川さんのことを知ってましたよ。

阿川 嘘でしょ!?

設楽 ほんと。ちっちゃくて可愛い子がいるなあって(笑)。

阿川 ホホホ。昔は可愛かったの(笑)。本日、ここ原宿のビームスの本社にうかがう前に、久々に原宿の街を歩いたら、私が高校、大学生の頃は、マドモアゼルノンノンとかMILKとかビギなど、とんがったブティックがあるくらいだったのが、いまや服屋さんだらけで。

設楽 阿川さんの学生時代から数年後の1976年にビームスが出来るんです。ビームスは元々、僕の父親が創業して、その創業の1年前に僕は大学を卒業して電通に入社していまして。

阿川 お父様は元々ファッション業界でお仕事されてたんですか?

設楽 (手を振って)全然。親父は、新光株式会社という段ボールを作る会社をやってたんです。ただ、当時オイルショックがあって紙の値段が上がったことによって、このままだと将来がないと思ったんですね。そのときに、いままではものを包む仕事だったけど、今度は人を包みたいと言い出して、飲み屋で知り合った人を介してファッションに詳しい青年に出会った、それが現在のユナイテッドアローズ名誉会長の重松(理)さんなんですが、彼にお店を任せてビームスを始めたんです。

阿川 ちなみにビームスの名前はどこから取ったんですか?

設楽 親父がやっていた新光株式会社の「光」から取りました。後に3つの意味を持たせて。

阿川 3つの意味?

設楽 ビームっていうのは光線だから、新しいものに光を当てる。そして、梁という意味もあるので、屋根の梁のように、みんなで支え合おうということ。そして動詞にすると、ビーミングフェイスというように、太陽に向かって微笑むという意味も出てくる。みんなにハッピーな微笑みを提供しようという、3つのスローガンが増えたんです。

ネズミ捕りは売れなかった(笑)

阿川 へぇ~。ビームスは最初からセレクトショップだったんですか?

設楽 当初“アメリカンライフショップ”と看板に掲げていました。服だけじゃなく、ちょっとした生活用品も置いていたんですよ。

阿川 たとえばどんなものを?

 

設楽 ネズミ捕りとか。これは売れなかった(笑)。あとはお香のキットも置いてましたね。

阿川 いまや流行なのにねぇ。

設楽 そうそう。だから、早すぎることがいいことではないんです。まだ文化が根付いてないときに商品として置いても支持を得られない。

阿川 設楽さんはその時点で、どうやってアメリカ文化に触れることができたんですか?

設楽 当時は皆がアメリカに憧れた時代ですよね。僕は学生時代、海でよく遊んでいた縁から、米軍キャンプの人と知り合いになって、彼らがバザーを開くときにアメリカの品物を見て、「これがアメリカか! こういうのが欲しい」と思ってましたけど、日本では売ってるところがなかったんです。

阿川 たしかに昔は舶来物というと上野のアメ横に行かないと買えないって思ってた。

設楽 アメ横か、福生か、横須賀ですね。でもそこにあるのは米軍放出品で、日本人にはサイズが合わないものが多かった。あとは百貨店で売ってるようなスーパーブランド。その中間がなかったんです。親父がファッションをやるぞ、と言ったとき、「じゃあ、欲しかったけど、日本では買えるところがないアメリカのものを置こう」と進言しました。