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ラグビー日本代表戦の裏の『いだてん』 “地雷の山”である近現代史を語る上で、なぜ「落語」が必要だったのか

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2019/10/27
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 JRが東京周辺ほぼすべての電車の運行を停止した歴史的な土曜日の翌日、2019年の10月13日の夜8時、あなたは台風19号の後始末に追われていたかもしれない。ようやく動き始めた電車に乗って、日曜日の職場で前日の後始末をして月曜に備えていたかもしれない。避難勧告で家を出たまま、避難所ですごしていたかもしれない。

 そしてもちろん、多くの視聴者と同じように、家で、あるいはスポーツバーで、視聴率39%を記録したラグビー日本代表のスコットランド戦に声援を送っていたかもしれない。

 色々な状況があり、いろいろな価値観がある。僕が今から書くのは、あの日、日本を覆った台風被害とスポーツの熱狂の裏で『いだてん』宮藤官九郎が何を語っていたかということについての話だ。夜に放送された第39回『懐かしの満州』は、第二章の最終幕であるだけでなく、『いだてん』という大河ドラマの本質、宮藤官九郎本人が「最も描きたかった」と語る核心に触れる45分間だった。

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(左から)『いだてん』主演の阿部サダヲさん、中村勘九郎さん、脚本の宮藤官九郎さん ©共同通信社

日本の近代史は「バッドエンドが約束された」物語だ

 多くの人が言うように、『いだてん』は異質な大河ドラマだ。主人公は日本人初のオリンピック選手である金栗四三と、五輪招致に奔走した立役者、田畑政治。大河ドラマの歴史の中で、明治維新より後、近現代史をテーマにした作品は数えるほどしか存在しない。『いだてん』はその中でも、とりわけ作り手が触れたがらない「戦前史」というパンドラの箱を真正面から舞台にしている。

 戦前史を舞台にした大河ドラマが作りにくいのは、この時代がヒーローを描き得ない時代だからだ。この時代に坂本龍馬のように胸のすく活躍を見せ、日本を破滅から救った英雄がいなかったことは誰でも知っている。日本はなすすべもなく勝算のない戦争に突入し、そして敗れた。それはいわばバッドエンドが約束された物語だ。

 近現代史には人物の行動だけではなく、解釈に対しても厳しい制約がかかる。例えば戦国時代であれば織田信長という戦国武将を描く時、「信長様は天下統一による戦のない世を望んでおられたのです」とヒロインに言わせたところで「虐殺者を美化している」という批判はたいして起こらない。坂本龍馬や新撰組をヒロイックに脚色しても批判は少ない。日本において明治維新以前の歴史の人物たちというのはいわば神話やシェークスピアのように物語化された半虚構的存在だからだ。

 しかし近現代史、戦前史においてはそうではない。『いだてん』の第1部や第2部の主役である金栗四三や田畑政治は手を伸ばせばすぐに届くような、今の僕たちとほぼ連続した時代に生きている。そこに存在するのは切れば血の流れる、リアルな歴史である。

『いだてん』への逆風が可視化された、関東大震災を描く回

『いだてん』を取り巻く状況の困難さを象徴したのが、関東大震災を描いた第23回『大地』の回であったと思う。震災で瓦礫の山と化した東京の夜を走る金栗四三は、燃える松明を持った男たちに地方訛りを聞き咎められ、こう詰問される。「なんだその言葉」「日本人じゃないな」。