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連載松尾諭「拾われた男」

松尾諭「拾われた男」 #29「兄の首から下はまるで死体のようで、驚くほどに軽く、臭かった話」

2019/12/02

genre : エンタメ, 芸能

 車椅子に座る兄の様は、首から下はまるで死体のようで、顔面の左半分が硬直したような表情に、体に麻痺があることが見て取れた。彼はその引きつった表情でこちらをしばらく凝視してから、暗く淀んだ目を少し見開き、上手く動かない口を歪ませながら、電話で聞いたように弟の名前を連呼した。目の前で名を呼ぶ兄の声が、ほんのわずかに琴線に触れたような気がしたが、何かが込み上げてくることはなく、その声にどう応えるか少し迷った末、さらりと言った。

「久しぶり」

 それを聞いて兄は、顔を歪ませたようだったが、あまり見ないようにした。その時兄がどういう気持ちだったのかは、ずいぶん後になるまで考えることもなかった。

兄の体は驚くほどに軽く、臭かった

 兄はそのうち電池が切れたように口を閉ざした。サンディと名乗る、ずいぶんグラマラスな看護師は、兄はなにかが原因で大変な処置をしたところで疲れている、といったような事を説明してくれたようだったが、疲れているという事以外はよく意味がわからなかった。分かったふりをして相槌をうつと、彼女は病室に戻ると言い車椅子を押したので、ジョンと共にその後に続いた。

 同じフロアにある兄の病室は、広く清潔で立派な個室だった。サンディは車椅子をベッド脇につけ「手伝って」と言うので、一緒に兄の体を抱き上げると、手から伝わる兄の体は肉の感触がなく驚くほどに軽く、臭かった。

©松尾諭

 ベッドの上の兄は、小さな声で途切れ途切れになにかを口にしていたが、そのうち目を閉じて眠ってしまった。ふと携帯を見ると、イリノイ州からわざわざ来てくれたリサちゃんの到着を報せるメールと電話の着信履歴が画面に表示されていたので、すぐに電話をし、複雑な敷地内の案内をジョンとサンディに任せて病棟の入り口の前で落ち合った。そもそも数回しか会った事のない義妹がわざわざ来てくれた事には感謝しかなかったが、そこでようやく彼女の住むイリノイのやや南部の街からカラマズーまで車で五時間半もかかると聞き、感謝どころか申し訳なさでいっぱいになった。「ごめんね」「申し訳ない」と謝りつつ、サンディの英語の説明がほとんどちんぷんかんぷんだったといったような事を話し、広い病棟内をまた少し迷いながら兄の病室へと戻った。