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連載歴史・時代小説の歩き方

2016/11/19

genre : エンタメ, 読書

「後藤丸」だったかもしれない「真田丸」

 もうひとつ読み比べたいのは、信繁と又兵衛がともに城の南に出丸を築くことを思いつく場面。ドラマでは、信繁の策を認めた又兵衛が信繁に譲るというふうに描かれていたが、なかなか決着がつかないのが池波正太郎『真田太平記』(新潮文庫)である。

『真田太平記』では信繁が城の南で、この辺に作るといいね、おやこんなところに材木があるよ、これ使っていいよね、てな作業をしているところに又兵衛が駆けつける。そこは自分が既に縄張りをしたんだ、材木もうちが用意したんだ、こっちが先だ、邪魔すんなと。

 譲れ、譲らぬの縄張り争いは延々続き、結局秀頼の裁断で又兵衛が引くのだが(信繁は大名の息子、又兵衛は黒田家の旧家臣という身分の違いもあったという指摘には膝を打った)、作中には「又兵衛基次も、この台形の地形を利用し、何らかの防備をほどこそうと思案をしていたらしい」とある。それはそれで見てみたい気もするよね。後藤丸。

 このくだりが面白いのは前述の矢野隆『生きる故』だ。信繁は兄が徳川方にいるため信用できないという噂が流れ、又兵衛が、あいつがそんなことをするわけがない、と一喝する――というのはどの小説にも登場する、又兵衛の男気を示す有名なエピソードだが、『生きる故』はこの逸話を出丸の縄張り争いの最中に入れてきた。そして又兵衛が信繁を信頼している証として、縄張りを辞退するのだ。

 ところがこれも信繁の策略だったというのが『生きる故』の発想で、なるほどいかにも信繁らしいと笑ってしまった。しかも、この後がいい。お前謀ったなと又兵衛に突っ込まれた信繁は、出丸の名前をつけて欲しいと又兵衛に頼むのだ。なんと『生きる故』では、「真田丸」は後藤又兵衛の命名なのである! だったら後藤丸にすればよかったのに!

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