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「一心同体にならないと」

「私が悪かったんだ。だから仕方なかったんだ」

 性行為は二度とさせないと誓っていた杏子さんは、自らに繰り返し言い聞かせた。

 08年2月のある夜、杏子さんは編集部で広河氏と2人きりになった。杏子さんが椅子から立つと、広河氏に背後から抱きつかれ、こう囁かれたという。

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「入れたい」

 そして、編集部の奥にある狭いトイレに連れ込まれそうになったと、杏子さんは話す。

「すごく気持ち悪かったので『入れたい』という言葉ははっきり覚えています。編集部でこんなことまでしてくるなんて、もう限界でした。この日を最後にDAYSに行くのはやめました」

「DAYS JAPAN」を率いてきた広河氏

 ジャーナリストを目指していた麻子さんが、「雑誌の発行もしている有名フォトジャーナリストのもとで学びたい」とDAYS編集部に出入りするようになったのは、都内の大学に入学した07年のこと。まだ18歳だった。

 写真展などのボランティアとして、編集部に足繁く通った。やがて、スタッフやボランティアに「仕事が遅い」「作業が雑だ」などと怒鳴り散らす広河氏の姿を繰り返し目にするようになったと、麻子さんは話す。

「どこでスイッチが入るかわからないから、とにかく機嫌を損ねないように気を使っていました」

 3年生のとき、麻子さんは一時的に学業に専念することを考えた。広河氏に相談すると「そんな中途半端じゃダメだ」とたしなめられたという。この先、広河氏の指導が受けられなくなると不安になった麻子さんは、引き続きDAYSに通うと泣きながら広河氏に伝えた。広河氏のことは横暴だと感じていたが、尊敬もしていた。

 このやりとりから間もないある晩、編集部で広河氏と2人きりになったとき、麻子さんは次のように言われたという。

「キミは本気でジャーナリストになりたいんだね。僕のアシスタントに興味があるならならせてもいい。でも、アシスタントになるなら一心同体にならないといけないから、体の関係をもたないといけない」

 広河氏に見放されることと怒られることを、何より恐れていた麻子さんにNOという選択肢はなかった。まごついていると、「反応を確かめるように」(麻子さん)広河氏にキスをされたという。

「『これはしなきゃならないものだ』と自分に言い聞かせ……」

 麻子さんによると、その夜、2人は新宿駅西口で落ち合ってタクシーに乗った。広河氏は「靖国通りに」「ここで曲がって」などと運転手に指示し、歌舞伎町のホテル街へと車を向かわせた。入口に噴水があるホテルに入り、麻子さんは広河氏とセックスをした。終えると、電車で帰宅したという。

「本当にしなくちゃいけなかったのか、帰りの電車の中で悩みました。セックスの最中は『これはしなきゃならないものだ』と自分に言い聞かせ“作業”としてこなしていましたが、一人になると、いろんな感情が込み上げてきました」

 目に涙を浮かべながら、麻子さんはそう振り返る。

 最初に広河氏とホテルに行った09年6月ごろから2カ月ほどの間に、麻子さんは広河氏の求めで3、4回、ホテルでセックスしたという。その間、麻子さんは広河氏からデジタル一眼レフのカメラをもらい、自分が撮った写真を広河氏にみてもらう機会もあったと話す。

「ヘタだ、ダメだと、けちょんけちょんに言われていましたが、弟子として広河さんに認められていると思っていました。ホテルへの誘いを断ったら弟子失格の烙印を押され、アドバイスをもらえなくなるんじゃないかと不安でした」

 広河氏に関係を迫られるようになってから、麻子さんの心身は変調をきたす。外出がおっくうになり、電話に出られない。夜も眠れなくなった。疲れているせいだろうと思ったが、心療内科に行くと「中くらいのうつ」と言われ、睡眠導入剤と精神安定剤を処方された。翌年、大学を休学し、DAYSからも離れた。

 こうして一度は逃れたはずの広河氏との関係だったが、東日本大震災があった11年、再び誘いの手が伸びる。麻子さんに、「アシスタントとして海外に一緒に行かないか」と広河氏から久しぶりに連絡があったのだ。

レバノンを取材する広河氏(2014年)

 広河氏に同行を呼びかけられたときの心境を、麻子さんはこう説明する。

「DAYSで知り合った人たちは被災地で取材するなど活躍していました。一方、私はといえば写真から離れ、引け目を感じていた。フォトジャーナリストへの道を歩み直す最後のチャンスかもしれないと思って、悩んだ末に『行きます』と答えました」

 麻子さんによると、渡航先に着いた日かその翌日、麻子さんは風邪をひき高熱を出した。ホテルの部屋で寝ていると、広河氏に「看病してやるから」と部屋に呼ばれたという。