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バンクーバー五輪で運命の出会いを果たした2人

 名古屋出身の小塚は、祖父も両親もフィギュア選手という、フィギュアの名門一家に育った。

「祖父は旧満州のチャンピオンで、名古屋にスケート文化の礎を築いたパイオニア。父・嗣彦氏は全日本3連覇を果たし、グルノーブル五輪に出場。小塚はまさに“フィギュア界のサラブレッド”です。10年のバンクーバー五輪代表、11年の世界選手権銀メダリストという経歴を持ち、かつては世界一のスケーティング技術の持ち主と評されていた。浅田真央や髙橋大輔とともに、日本のフィギュア人気を支えてきた功労者です」(スポーツ紙記者)

 そんな小塚の姿に憧れていたファンの一人が大島だった。大島は07年にフジテレビに入社後、「ニュースJAPAN」のメインキャスターを務めるなど、一貫して報道畑を歩んだ。

「就職浪人してまで入社するほど根性があり、現場取材もこなせるアナウンサー。次世代の“報道のエース”として期待されていました」(フジテレビ局員)

 2人はバンクーバー五輪で運命の出会いを果たす。

「大島はフィギュアの大ファンで、特に小塚のスケートが好きでした。バンクーバー五輪でリポーターを務めたことで急接近。交際が始まりました」(同前)

 2人は15年7月に婚約し、16年2月に入籍。小塚は同年3月に現役を引退すると、所属先のトヨタ自動車でサラリーマンとして働き始める。

 2人はしばらく別居婚を続けたが、大島は17年4月に長女を出産し、同年末にフジテレビを退社。名古屋市内の小塚の実家近くのマンションを借りて、家族3人で暮らし始めた。

「大島さんは東京でのキャリアを捨て、縁のない名古屋の地に骨を埋める覚悟でした。娘に小塚が出ているアイスショーの映像を見せて、自分からスケートをやりたいと思わせる環境を作ろうと努力していた。育児の傍ら、夫へのファンレターにも返事を書いていましたね」(別の大島の知人)

小塚の生活が荒れたきっかけ

 だが、大島が“内助の功”を発揮する傍ら、小塚の生活は荒れる一方だった。きっかけは14年ソチ五輪の代表落選だったという。

「ソチ五輪の選考過程では、怪我に苦しむ中、最後のチャンスの全日本選手権で3位に食い込みました。しかし、代表には5位の髙橋が選ばれた。そこから彼の中で何かのタガが外れてしまったようです」(前出・スポーツ紙記者)

 フィギュア関係者は、小塚の変貌をこう惜しむ。

「彼はフィギュア界で純粋培養されて、社会経験が全くなかったんです。それがソチ五輪後、父親が紹介したダンサーに連れられ、『表現力を身に着けるため』という理由でクラブ通いを始めた。交友関係も変わり、同世代の競泳ロンドン五輪銅メダリストの立石諒と知り合って夜遊びを教えてもらい、酒と女に溺れるようになったのです」

 globeのマーク・パンサーとも親交が深く、SNS上ではクラブで夜通し遊んでいる様子が何度か投稿されている。

マーク・パンサーと痛飲(小塚のインスタグラムより)

 大島も交際時から小塚の夜遊びは知っていたという。

「由香里はいつも不安そうで、過食気味の時期もありました。それでも『私は腹をくくったんです!』と、結婚に踏み切りました」(別のフジテレビ局員)

 大島の覚悟とは裏腹に、子供が生まれても小塚の生活は変わらなかったようだ。

「由香里が産後4カ月でゲッソリしている時に、名古屋のモデルとクルーズ船で乱痴気騒ぎしていたし、夜遊びして翌日の仕事をすっぽかすことも日常茶飯事でした」(同前)

 小塚は17年7月に「氷上復帰」を宣言し、アイスショーにも出場するようになった。さらに解説者としても活動し始めるが、羽生結弦に対して辛めのコメントをすることで知られる。

「平昌五輪で羽生が金メダルを獲得した際、『彼の作戦勝ちですね。難しいジャンプを抜いて点数を求めた。勝てるプログラムをやってきた』と語り、羽生ファンから大バッシングを受けました」(スポーツライター)