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「え、そのキスシーン必要?」「血縁主義」に回帰してしまった『スター・ウォーズ』最新作への違和感

女性主人公は旧作の価値観との闘いに敗北した

2020/01/05
note

*以下の記事では、現在公開中の『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』の内容と結末が述べられていますのでご注意ください。

 突然であるが、フェミニズムの目的は何だろうか? 

 それは、フェミニズム自体を終わらせることだ。性による不平等をなくすことがフェミニズムの目的であるなら、その目的が達せられることとは、フェミニズムが不必要な社会が訪れることに等しい。 

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 一部には、そのような社会はもう訪れた、という感性も存在する。現代は「フェミニズム以後=ポストフェミニズム時代」だ、という感覚である。 

『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』主演のデイジー・リドリー(左)とジョン・ボイエガ(右)©Getty Images

 確かに部分的にはそう見えなくもない。とりわけ、ポピュラーなフィクション、特に映画や漫画やアニメを見ると、ここ3〜40年はパワフルな女性を主人公とする物語にあふれている。それに現実の上で対応するのが、例えばフェイスブックのCOOであり、『リーン・イン』の著者であるシェリル・サンドバーグだろうか。「ガラスの天井」を打ち破ってグローバルに活躍し輝く女性。輝くと言えば日本政府が女性活躍を口にする際に想定されているのはそのような女性なのだろうか。 

 もちろん、そのような認識は間違っている。例えば世界経済フォーラムの最新のジェンダー・ギャップ指数において、一昨年の110位から153カ国中121位に甘んじた日本では、フェミニズムは必要の一言である。確かに女性の就労率は上がってきている。だがその大部分は非正規雇用だ。きらきらと輝くどころか、現在の経済において雇用の便利な調整弁として女性は労働市場にかり出されている。 

 この「輝く女性」のイメージと現実との落差は何なのだろう。私は、ポストフェミニズム状況というのは、フェミニズム以後ではなく、そのような落差が存在し、存在するのにそれが隠された、そのような状況の全体のことだと思う。 

続三部作の主人公・レイをフェミニズムの観点から分析すると……

 さて、この度、『スター・ウォーズ』の続三部作(シークエルと呼ばれる)の完結作となる『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』が公開されたが、そのスター・ウォーズシリーズ、とりわけディズニーに製作が移った後のエピソード7から9の三部作は、まさにそのようなポストフェミニズム的な問題を考えざるをえない作品だった。 

 それはまずなんといっても、レイという女性が三部作の新たな主人公となったからである。私はこちらの記事で、『アナと雪の女王2』と『風の谷のナウシカ』との類似性を指摘したが、それに先行して拙著『戦う姫、働く少女』で、『スター・ウォーズ』のレイとナウシカの類似性を指摘した。この二人については、両者の登場シーンを比較すれば明らかである。腐海の毒を吸わないためのマスクをし、長いライフルをかつぐナウシカと、同じくマスクをして、彼女の象徴ともいうべき棍棒を肩にかついだレイの類似性は、あからさまと言っていい。 

『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』予告編


 服装だけではない。二人は、なみいる男性キャラクターたちに、その能力において勝るだけではなく、物語の「真実」により近いところにいる。ナウシカの場合は腐海の真実を知ることで、そしてレイは「フォース」の真実にだれよりも近づくことによって。 

 シリーズ全体を見ると、レイは単にフェミニズム的なキャラクターなわけではない。私たちはとりわけ最初の三部作(エピソード4から6)の、「レイア姫」とレイとの比較を避けるわけにはいかないだろう。