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小川洋子「小説を書かなくたって、誰でも無意識のうちに物語を作っている」

著者は語る 『約束された移動』(小川洋子 著)

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『約束された移動』(小川洋子 著)

 小川洋子さんはかつて、臨床心理学者の故・河合隼雄さんとの対談集のあとがきに「現実と物語が反発するのではなく、境界線をなくして1つに溶け合った時こそ、大事な真実がよく見えてくる」と書いた。短篇集『約束された移動』の6つの物語に登場する人物達は、現実にはありえないほど奇矯(ききょう)な人々なのだが、「この人を知っている」「これは私だ」と、読み進めるほどに、精確なドキュメンタリーを観ている心地になる。

「書くべきことは常に現実の中にあります。小説は、作家が空想で拵(こしら)えているのではないのです。どんな突飛な設定であろうと根っこには生身の人間がいます」

 表題作はホテルの客室係の視点で語られる。類まれな美貌で一世を風靡したハリウッドスターBは、1年か2年に1度、「私」の勤務先に泊まる。Bは中年期の方向転換に失敗し、不摂生で容姿は衰え、最近は出演作も減り、スキャンダルで時々人々の口の端にのぼるくらいだ。だがBの泊まった部屋を何十年も掃除し続け、彼との秘密を共有している「私」は、Bは落ちぶれたのではなく、人生の旅路を勇敢に歩み続けている人であることを知っている。

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「直接交際するより、その人の部屋を掃除する方が、分かってしまうことがあります。書いている時は全然意識しませんでしたが、今村夏子さんの『むらさきのスカートの女』やルシア・ベルリンの『掃除婦のための手引き書』など、掃除婦が大流行りですね(笑)。日常に違う角度から光をあてることの出来る、小説的存在、とでも言いましょうか」

「ダイアナとバーバラ」でも、スターとその追っかけのような女性が描かれる。スターは故・ダイアナ元英国皇太子妃で、おそらく日本人女性の自称「バーバラ」は、婚約中や新婚時代のダイアナ妃の衣裳を、写真をにらみながら自分で縫い上げ、それを着て、孫娘を連れ街を歩くことを無類の愉しみとしている。普段は優秀な、市民病院の案内係だ。

「私は本当にミーハーで、ワイドショーとか皇室番組とか大好きなんです(笑)。この小説では、ミーハーとかファンとか呼ばれる人たちよりも一歩先に行ってしまった人を描きたかった」

 ダイアナとバーバラの共通点は、結婚生活が無惨であったこと。バーバラは過ぎた時を繕うかのように、チャールズの愛を諦めていなかった頃のダイアナのドレスを縫い続ける。

「バーバラにはどうしても消化しきれない人生の苦痛があり、それと折り合いをつける方法が裁縫、そして作ったものを着て外出すること。客室係とBのように、バーバラとダイアナも決して会うことはないし、全く立場も違う。裁縫を通じてバーバラは、一方的かもしれませんが、他者との通路を確保しているのです」

「黒子羊はどこへ」は、若い頃流産してから、ひとりで暮らす女の物語だ。村に異形の羊2頭がやってくる。村人が忌避する羊たちを女は引き取り、自分の子供のように愛でる。生き物を育てる奥義を会得しているこの女性は、やがて託児所の園長となり、子供らから慕われて後半生を送るが――。

小川洋子さん

「卒園生を好きになっちゃってね(笑)。子供らが傍にいても決して埋められない欠落を抱えているんです」

 残酷ともいえる結末であるが、「真実」の力なのか、不思議と読後感は清々しい。

「小説を書かなくたって、誰でも無意識のうちに物語を作っているのです。記憶に刻まれた現実が誇張されたり削ぎ落とされたりし、その人だけの心の物語になっていく。分かち難く共存する物語と現実を、皆、生きているのだと思います」

おがわようこ/1962年、岡山県生まれ。91年「妊娠カレンダー」で芥川賞、2004年『博士の愛した数式』で本屋大賞、13年『ことり』で芸術選奨文部科学大臣賞。多くの作品が翻訳出版されフランスを中心に海外にも熱心な読者を持つ。

約束された移動

小川洋子

河出書房新社

2019年11月12日 発売

小川洋子「小説を書かなくたって、誰でも無意識のうちに物語を作っている」

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