県道沿いの駐車場に車を停めてから、坂道を登り続けること約20分。私たちは最初の廃屋にたどり着いた。板張りの2階建てで、手前に黄色の土壁の倉がついている。
遠目の外観はそうではないものの、近づいてみると、人が住んでいたという気配は大分薄れている。軒先に新聞が落ちており、日付を確認すると1967(昭和42)年とあった――。(全2回の1回目/後編へ続く)
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ここは埼玉県秩父市・浦山地区。別名「秩父さくら湖」とも呼ばれる浦山ダムからすぐ近くの山村だ。西武秩父駅から車で約15分の場所にある浦山地区は、1956(昭和31)年までは秩父郡浦山村という行政区だった。秩父市に編入されたのは1958(昭和33)年である。
四方を標高1000メートル級の山に囲まれ、山岳部含め、南北12㎞、東西10㎞。南北にやや長い方形の地域だ。私と編集者Tは、浦山地区に広がる“廃村銀座”の現場を取材するため、ここを訪れた。
半世紀あまりで人口が10分の1以下に
日本全国の山村がそうであるように、高度成長期以降、浦山も過疎化が急速に進行した。1955(昭和30)年に1242人(262世帯)だった人口が、2013(平成25)年には104人(58世帯)と、半世紀あまりで10分の1以下になってしまったのだ。
この人口急減には大きな理由がある。浦山川の渓谷の一部に、巨大な浦山ダムが建設されたことだ。1972(昭和47)年に着工し、1998(平成10)年に竣工した浦山ダムは、堤の高さが156メートルと、重力式コンクリートダムとしては全国2位の高さを誇る。堤体の上からの眺めは絶景で、秩父盆地はもちろん、遠く赤城山や日光連山まで見渡せる。
しかしその裏で、浦山川沿いの県道脇に位置する計58戸が移転を余儀なくされ、加えて2つの集落が湖底に沈んだ。
3分の2の集落が“廃村”になってしまった
一方、山沿いの道に点在する集落はダム工事の影響を免れたものの、生業である林業・薪炭業の衰退や車が入れない不便さなどが理由で、1960年代後半から次々と住人が去っていった。その山沿いの道を上郷道(うわごうみち)という。大正期に浦山川沿いの県道が通じるまでは、そこは浦山村のメインストリートだった。
そして時とともに、やがて一つ、また一つと、すべての住民が去り、無人となる集落が現れた。嶽(たけ)、巣郷(すごう)、有坂(ありさか)、茶平(ちゃだいら)、大神楽(おおかぐら)……。今では秩父市街に近いか、県道へのアクセスがよい3つの集落を残すのみで、上郷道はいつしか“廃村銀座”になってしまったのだ。
浦山全体では、かつて18の集落があった。だが現在、人が住んでいるのはわずか6集落のみである。