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串カツ田中の「東京の世田谷から攻めていく」が大正解だった訳

「串カツ田中」と「串かつ でんがな」が登場

実はチェーンが出店する以前にも東京には大阪スタイルの串カツ店が存在していた。代表的なのが東京・北千住に店を構える「天七」である。現在もオープンと同時にお客でごった返す人気店だ。同店の店主は大阪の串カツ店で修業し、1975年に開業したという。とはいえ、その存在は「知る人ぞ知る」というレベルで、関東圏に住む大多数の人にとって大阪スタイルの串カツは未知の食べものであった。

そこに目をつけたのが、ノート(現・串カツ田中)とフォーシーズの2社だ。前者は前述のとおり、2008年12月に東京・世田谷に串カツ田中の1号店を出店。屋号の「田中」は大阪出身で串カツに対する思い入れが強く、業態の開発を担当した同社取締役の姓から取っている。

一方で後者は、宅配ピザ「ピザーラ」や高級フランス料理店「ジョエル・ロブション」などを展開する外食企業。大衆向けの業態を開発するにあたって大阪出身の取締役が音頭を取り、2008年4月に「串かつ でんがな」の1号店を東京・渋谷にオープンした。2020年1月現在で「田中」が276店、「でんがな」が84店を出店している(各社HPより)。

「大阪名物」になったのは2000年代になってから

なお、大阪における串カツの歴史については、新世界にある「串かつだるま」で発祥したというのが定説のようだ。菊地武顕著『あのメニューが生まれた店』(平凡社)によると、もともと串カツは肉体労働者の食べもので、現在のようにたくさんのメニューがあったわけではない。牛カツだけを提供していて、大阪でも今ほどメジャーな存在ではなかった。

それが、「大阪名物」とまでいわれるようになったのは、意外にも2000年代に入ってからだ。串かつだるまが閉店を余儀なくされそうになったとき、元プロボクサーで俳優の赤井英和氏が尽力して現在の店主にあとを継がせ、自身も串カツの魅力をテレビなどで喧伝した。こうして串カツ人気が高まり、それまで新世界にしかなかった串カツ専門店が大阪のほかのエリアにも広がっていったということだ。