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「もう女性は相手にしちゃいけないなあ」

野村 だから、もう女性は相手にしちゃいけないなあ、と。

阿川 これから相手にしようと思ってらしたんですか(笑)。

野村 そんなことをフッと考えますよ。いまは毎日テレビを観て時間を潰してますけど、男って弱いなあってつくづく思うんです。

阿川 奥様に先立たれると、ダンナさまはほんとにショボ~ンとされちゃうんですねえ。やっぱり女性のほうが強いんでしょうか。

野村 ああ。私の母親はダンナさんに早く死なれて。父は僕が3つのときに戦死したんです。

阿川 じゃあ、お父様の記憶は?

野村 まったくないです。3歳上の兄も、「なんとなく憶えている」くらいで。だから僕らが小さいときから、家は貧乏で、母親は苦労ばかりしていました。おふくろが息を引き取ったあと、「何しに生まれてきたんだよ」と声をかけてしまったくらい。不幸な女の代表みたいな一生だったんじゃないでしょうか。

ヤクルトスワローズ監督時代。1990年~1998年まで9シーズン務めた ©文藝春秋

「どうやったら金持ちになれるか、ばっかり考えてました」

阿川 でも、そのお母様を楽にしてさし上げようと思って、野球選手になられたんですよね?

野村 そうですね。京都府丹後のド田舎の出身ですから、お金が稼げる職業といえば、歌手か俳優か野球選手くらいしか思いつかなかった。中学生時代からどうやったら金持ちになれるかということばっかり考えてましたよ。どうしてそのとき、社長になるという選択肢が浮かばなかったのか(笑)。

阿川 フフフ。そんなことおっしゃいますが、野球選手のみならず、監督としても超一流の結果を残されたじゃないですか。

野村 まさかまさかの人生ですね。野球は中学2年生で始めたんです。というのも、野球は他の球技に比べて、バットやグローブなどお金がかかる。それまではバスケットボールやバレーボールをやってたんです。

阿川 その中でも野球が一番得意だったんですか?

野村 全部得意でしたよ。

阿川 あら、失礼いたしました(笑)。

「プロになって毎月1000円仕送りしてました」

野村 ただ、バスケはプロがなかったからねえ。中学2年生で野球を始めたら、野球部の連中がみんな褒めてくれるんですよ。「うまいなあ。以前からやってただろ?」って。でも、おふくろは「中学を出たら働いて助けてくれないと、この家はどうしようもない」と、野球を続けることに反対していました。野球なんて遊びだろうと。なんとか兄貴と野球部の顧問の先生がおふくろを説得してくれました。特に兄貴は「大学に行くつもりだったけど、働く」と言ってくれて。おかげで高校に進学して野球を続けることができたんです。

1997年の日本シリーズ、西武ライオンズを4勝1敗でくだし3度目の日本一。胴上げされる野村氏 ©文藝春秋

阿川 お兄ちゃん、優しい~。

野村 兄貴のおかげです。野球部の試合と家の畑仕事が重なったときには、「俺がやっておくから、行ってこい」と助けてくれたり。後年、兄貴に「俺の野球の素質を見抜いとったのか?」と聞いたことがあるんです。そうしたら、「プロの選手になるとは思わなかったけど、社会人野球なら行けるだろうと思っていた」と言ってました。母親もプロに入った後は「あれだけ、お母さんが反対した野球で、職業野球に入るって分からんもんやなあ」と驚いてましたね。