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あの日から9年 福島で「原子力 明るい未来の エネルギー」標語を作った“少年”はいま

双葉町の一部で避難指示が解除。無人の街に日常は戻るのか

2020/03/11
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 2011年3月11日の東日本大震災にともなう東京電力・福島第一原発事故の影響により、福島県内で唯一全域に避難指示が出されたままでいた双葉町で、3月4日、一部避難指示が解除された。震災から9年が経つが、2022年に住民の帰還を目指す。

再開前の双葉駅

署名を集め、町に保存を要望したPR看板

 筆者は、避難指示解除前の2月25日、当時アパート経営をしていた大沼勇治さん(44)と一時立ち入りをした。小学校時代に作った標語「原子力 明るい未来の エネルギー」が、原発推進のPR看板に採用された人物だ。自宅での荷物整理中につぶやいた「止まった町と進む時間」という一言が印象に残った。

 大沼さんは現在、茨城県古河市で妻、長男、次男の4人で暮らす。2010年3月に妻と結婚し、1年後に原発事故にあう。そのときお腹の中にいた長男はすでに小学校3年生。次男は小学校1年生だ。

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当時のままの店舗

 大沼さんは太陽光発電の売電事業を始めた。震災後に、土地を用意し、パネルは融資を受けて作った。今では、パネルが置かれた場所を回り、エネルギー効率をよくするために掃除に出かける日々だ。その合間に、双葉町への一時立ち入りをしている。

 国道6号線からJR双葉駅へ向かう途中に、かつては原発推進PR看板があった。1988年3月に建てられた「原子力広報塔」で、91年に標語の入れ替えがあったとき、国道側には「原子力 明るい未来の エネルギー」が使われた。当時、双葉北小学校6年生だった大沼さんが考えたものだ。標語が選ばれた際、岩本忠夫町長(当時)から表彰状を受けとった。岩本町長はもともと反原発運動のリーダーだった。しかし町長になると、推進する側になった。2011年7月、避難生活の中で亡くなった。

「原子力 明るい未来…じゃなかった」新しい標語を掲げる大沼さん(大沼さん提供)

 この看板は事故後の15年3月、町が撤去を決めた。老朽化がその理由だった。撤去後は廃棄予定だったが、大沼さんが約7000筆の署名を集めて、町に保存を要望した。

震災前は、アパートを経営しながら不動産会社の営業マンを

 震災前、大沼さんは東京電力の社員向けのアパートを経営しながら、不動産会社の営業マンをしていた。そのアパートの近くに、当時住んでいた家がある。2階にある寝室には「やった分だけ自分に返る」と書いた貼り紙が今でも掲示されていた。どんな意味かを尋ねると、震災前に手がけていたアパート経営を頑張ることだった。その上で、こう語る。

「原発とともに生き、豊かにあることで、今後もアパートを増やそうと思っていたんです」

崩れたままの家屋

 小学校のときに書いた習字を見つけた。そこには「希望」とあった。また、妻が妊娠中だったため母子手帳があったが、その手帳が入っていた封筒には、「安心・安全・豊かな暮らし・未来にはばばたく・双葉町」と書いてあった。

「希望か……。皮肉ですね。それに、安心・安全って、妻は当時、妊娠中。着のみ着のまま、逃げてきたというのがわかりますね」