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「武闘派ヤクザ」高山若頭の智謀……“暴力団業界のM&A”で東京進出の舞台裏

2020/03/22

source : 週刊文春デジタル

genre : ニュース, 社会

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 6代目山口組弘道会傘下での「大量破門」が憶測を呼んでいる。偶然にも処分が重なったのか、それとも新たな抗争の予兆なのか――。

 指定暴力団「6代目山口組」から、「神戸山口組」が分裂し対立の構図が続く中、山口組若頭の高山清司が昨年10月に府中刑務所を出所したことで抗争事件が激化。その後、双方が特定抗争指定暴力団とされたことで警察当局の強い規制が働き、睨み合いが続いていた。その静寂の中での「大量破門」だけに、波紋を広げている。

 警察庁幹部をして「高山の出所以降、山口組の動きは変化してきている」とまで言わしめる高山。そこまでの存在感を示すようになった背景には、組織改革と暴力団業界の“M&A”とでも言うべき異例の手法で東京進出を果たした歴史があった。

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6代目山口組若頭の高山清司(中央) ©時事通信社

桑田、宅見、司という“ニューリーダー”集団

 神戸山口組が離脱したことで、近年の対立抗争事件がクローズアップされるが、山口組はこれまで内部対立、分裂の歴史をたどってきた。

 昭和の後半から平成の時代にかけて全国に進出し組織が巨大化していくに従い、これまで何度も殺し合いとなるケースがあった。最大の内部抗争は1985年1月に4代目組長の竹中正久が殺害された事件をピークに25人が殺害され約70人が重軽傷を負った「山一抗争」だった。

 竹中死去後は紆余曲折を経て、山口組内の中核組織、山健組出身の渡辺芳則が1989年4月に5代目組長に、ナンバー2の若頭には宅見組を率いた宅見勝がそれぞれ就任した。跡目争いは収束し、時はバブル経済の好景気に沸いていたころでもあり、全国の暴力団業界もシノギ(資金獲得活動)でその恩恵を受けていた。1992年3月に暴力団の活動を規制する暴力団対策法が施行されたが、それでも「直参」と呼ばれる直系組長が120人を超えた時期もあった。

 しかし、「山波抗争」と呼ばれた波谷組との対立抗争事件で一般市民が誤って射殺された事件をめぐり、遺族から「使用者責任」を追及するとして渡辺を相手取り約1億2600万円の損害賠償請求訴訟が起こされ、警察当局以外からも法的責任を追及される事態となった。